其の四


 息が切れる。捻挫した足が痛くて、小走りにしかなれないはずなのに、やたらと息が苦しい。拭っても拭っても溢れてくる涙のせいで、視界は不明瞭だ。他の患者さんたちとすれ違うたびに視線を感じる。驚いているか、不審がっているかのどちらかなんだろうけど、ぼやけて顔が見えない。
 お父さんが死んだのは二年前、私が小学五年生の時だ。お母さんの誕生日プレゼントを二人で買いに行ったとき、信号待ちをしていた交差点の歩道へ車が突っ込んできたのだ。信号無視だったのか飲酒運転だったのか、ただ単に操作を誤ったのか、理由は知らない。お父さんは私をかばって跳ね飛ばされた。今でもはっきりと思い出せる。血は出ていなかったから、最初は気を失っているだけだと思った。でもその後お父さんの目が開くことは二度となかった。
 階段を下りてロビーを抜けていく。ここでも患者さんたちからはじろじろ見られたが、幸い医者や看護婦さんに見咎められはしなかった。私はまっすぐ外へ向かう。一刻も早くあの不快な奴から離れたかった。
 白い着物を着て棺の中に入れられたお父さんは眠っているだけにしか見えなかった。当たり前だけど、何度呼びかけても目を覚ましてはくれなかった。火葬場で白い骨の欠片になったお父さんを箸でつまんだ時、ああ、本当にお父さんは死んだんだな、と思った。それから私は怪談が嫌いになった。どこそこの屋敷に幽霊が出るとか、そういう話をして楽しんでいる連中は、きっと、人間の骨の欠片がどれだけ白くて軽くて頼りないものか知らないのだ。
 病院を出てしばらく歩いた頃に、私は医者の言葉を思い出した。高藤君が目を覚ましたら病院の人を呼ぶようにと言われていたこと、それに学校の先生や家の人が病院に迎えに来てくれるということも。私は道端で足を止め病院の方を振り返る。そして通りをぐるりと見渡す。知った顔はない。先生もお母さんもまだ病院へは来ていないのだろう。それならば学校へ行ってしまおう。お母さんは今頃お仕事だから、私が家に帰ってしまうとすれ違うことになる。学校に行けば先生から病院に連絡してもらうこともできるだろう。いろんな人に手間をかけさせることにはなるが、今はどうしても高藤君の顔を見たくない。
 歩いていくうちに、涙はおさまってきた。とぼとぼと足元を見ながら歩く。天気は曇りで、日光が遮られている分それほどひどい暑さではないが、その代わり蒸し暑い空気が漂っていた。お昼時だというのに少し薄暗い。厚い雲のせいだろう。一雨降るかもしれない。学校に着く前に降ってきたら最悪だな、と思いながら私は一旦足を止めた。聞き慣れた音が聞こえてきたからだ。
 そこはいつもの踏切だった。
「え」
 私は思わず、手から提げていた学生鞄を取り落とした。私はいつの間に踏切の方へ歩いてきていたのだろう。病院から学校へ行くのにこの踏切を通る必要はない。こちらは自宅へ帰る方向の道だ。考え事をしながら、俯きながら歩いていたから、道を間違えたとでも言うのだろうか。子供の頃から住んでいるこの町で。そんなこと、ありえない。
 カンカン、踏切がサイレンを鳴らす。まだ遮断機は下りていない。どっと汗が噴き出してきた。
 こんな所に立っていないで、さっさと戻ればいい。頭ではそう分かっているのに、どうしてか足が言うことをきいてくれない。ごくりと渇ききった喉が唾を飲み込む。まだ遮断機は下りない。サイレンがうるさくて耳鳴りがする。道のこちら側にもあちら側にも人の影はない。今、この踏切には、私一人しかいない。
 どうして遮断機が下りないのだろう。私はふとそんなことを思った。頭はなんだかぼんやりしている。サイレンが鳴り始めてしばらく時間が経ったはずなのに、遮断機は下りない。サイレンの故障だろうか。それとも遮断機の方が壊れているのだろうか。それとも――私が入っていくのを待っているのだろうか。
 その発想がおかしいということも、その時の私には分からなかった。
 足が動く。落とした鞄はそのままに踏切の中へ入っていく。中央にまで進み出たとき、耳元で誰かが笑ったような気がした。誰かいるのか。振り向いた私は信じられないものをそこに見た。
 お父さんだ。お父さんが優しい顔で笑って、そこに立っている。
 私は振り向いた姿勢のまま動けなくなった。私の目に映ったお父さんは、忘れもしないあの事故の日と同じ服装をしていた。涼しげな水色のチェック模様のシャツを着て、お母さんにあげる花束を注文して、きっと喜んでくれるよと笑ったお父さんだ。お父さんは何も言わずに、あの日と同じ顔で笑って私の手をそっと引いた。
 嘘だ。これは夢だ、だってお父さんはもう死んだのだ。白い骨になったのだ。私はこの手で骨を拾ったのだから、こんな所にいるはずがないのだ。きっと高藤君があんな趣味の悪い冗談を言ったから、それでこんな夢を見ているんだ。幽霊なんか現実にいるはずない。そんなのは死を受け入れられない人間が、自分の心を守るために生み出したただの幻想なのだ。だからこれもたちの悪い白昼夢かなにかで、さっさと目を覚まさなきゃいけない。
 ああ、でも。

 夢でもいいからまた会いたいって何度願ったか分からないのだ。

「トーコ、しっかりしてください!」
 少女の高い声が耳を打った。金縛りにあったように動けない私はそれに答えることもできない。
「トーコのお父さまはトーコのしあわせを祈ったのです! トーコを死なせたりするはずありません!」
 ばさり、と鳥がはばたくような音がして、少女の細い腕が後ろから私の胸に回される。舞衣の声だ。彼女の腕は彼女の身長を思えば到底届かないはずの位置にあったが、それを怖いとは思わなかった。私はぎゅっと唇を噛みしめ、お父さんの顔をもう一度見上げる。またぽろりと涙が零れた。
 見上げたお父さんの笑顔がいびつに歪む。優しげな顔から一転、不気味な笑顔へと変化した。怖い、そう思った瞬間、お父さんの姿が掻き消える。サイレンの鳴り響く踏切の中、立ち尽くす私と私を抱きしめる舞衣の二人だけになった。足はまだ動かない。声も出せない。はっ、はっ、と自分の粗い息遣いが聞こえてきた。頭がくらくらする。舞衣の腕とは別に、反対側から手を引かれている感触がある。それが誰の腕であるのか、脳が理解することを拒否していた。
「縛!」
 背後から少年の声が響く。ぱきん、とガラスが割れたような音がして、私の手を引いていた何かの感触が消えた。体も少しだけ自由がきくようになり、私は壊れた人形のようにぎこちなく、声のした方を首だけで向いた。
「舞衣、任せたぞ」
 高藤君がそこにいた。病室から走って来たのか、顔を赤くして息を切らしている。靴は見つからなかったのか病院のスリッパのままだ。
 肩で息をしながら、高藤君がぱんと両手を合わせる。ぶつぶつと小さな声で何かを呟きながら、左手は手を合わせた形のまま、右手だけを動かして四角を描く。その手の動きに合わせて、私の周囲でぱきぱきと音が鳴った。半透明の舞衣が私の後ろから前面に回り込み、私の頭をその小さな胸に押し付ける。私の目には、彼女の背中に生えた鳶色の翼がはっきりと見えた。
「――還れ」
 高藤君がそう言った次の瞬間、すぐ近くで悲鳴が聞こえた。いや、悲鳴だったのか、そもそも人の声だったのかも怪しいような、低くて暗いおぞましい音だった。思わず身をすくませる私を守るように舞衣の腕の力が強くなる。視界に黒いもやのようなものが見えたような気がしたが、すぐに目を閉じてしまったのでよく分からなかった。
 一瞬だったような、すごく長い間聞こえていたような、その悲鳴が途切れるのと同時に、私を抱きしめていた舞衣の姿もふっと掻き消えてしまった。私は糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。金縛りのような感覚はもうなくなっていたが、代わりに体ががくがくと震えてしまって力が入らない。踏切のサイレンはまだ鳴り続けている。いつの間にか遮断機も下りていた。遠くから汽車が線路を揺らす音が聞こえてくる。早く、早く出なくてはいけない。
「萱島」
 四つん這いになった私に、同じく姿勢を低くして遮断機をくぐった高藤君が手を差し出した。震える手を強い力で引かれる。ほとんど引きずられるようにして、私は踏切の中から道路の上へと転げ出た。アスファルトに擦ったのか、膝が痛い。
「た、かふじ、くん」
 ようやく出せた声は笑えるほど震えて掠れていた。だが隣で同じように転がっている彼は笑いはしなかった。ひどい顔をしているであろう私をちらりと一瞥すると、深い深いため息をついたあと、ゆっくりと地面の上に倒れ込んだ。
「高藤君」
「……気持ち、悪い」
 とにかくお礼を言おうともう一度声をかけたとき、彼がぽつりとそう漏らした。驚いて様子をうかがうと、先程まで赤かった彼の顔は蒼白になっている。
「え、ちょっと」
 大丈夫かと聞くまでもなく、どう見ても大丈夫ではなかった。うえっ、と小さく声を漏らしながら嘔吐する彼の背をさすりながら、私は必死に大声を出して近くの人に助けを求めた。幸い、通りがかった人が救急車を呼んでくれたので、私は本日二回目の救急車に乗せられた上、気を失った高藤君の代わりに救急隊員の人たちにお説教させるはめになったのだった。


 その後は大変だった。まず先述のように救急隊員に怒られ、入れちがいで病院に駆けつけていた先生とお母さんに怒られ、何故こんなことをしたのかと詰問された。何故と言われてもとても説明できることではなかったし、説明しても納得してもらえるとは思えなかったが、しつこく聞いてくる大人たちに根負けして結局はありのままを素直に話すことにした。結果としてはやはり信じてはもらえず、私はお父さんが事故で亡くなったことで精神的に参っていると判断されたらしい。高藤君については精神的におかしくなった私を心配して、病院を出て行った私を慌てて追いかけたということになっているようだ。違うようなある意味正しいような、複雑な気分である。
 精神的にもしばらくの療養が必要ということで、私は捻挫が治るまでの間入院することになった。とはいえ、毎日少しだけ精神科の医者と話をするぐらいで、それ以外の時間は特にすることもない。確かにお父さんのことで抱えているものがないわけではない。でもそれは、入院して治療するほどの傷ではないと思っている。
 そういうわけで、私は毎日、同じく暇な時間を過ごしている高藤君の病室に遊びに行くことにしていた。別に高藤君に会いたいわけではない。舞衣が待ってくれているからだ。でも今日の目的は、不本意ながら高藤君の方だ。
「トーコ」
「こんにちは、舞衣ちゃん」
 病室の戸を開けると、半透明に透けた舞衣が出迎えてくれた。四人用の病室は相変わらず高藤君の貸切状態である。私は窓辺のベッドの方へ行き、仕切りのカーテンの中へと入っていった。
「また来たのか」
「悪い?」
「いや別に」
 舞衣の姿を誰の目にも映る状態にするには、結構体力を使うものらしい。こうして病室に遊びに来ると、ほとんどの場合彼女の体は半透明だった。半透明でも彼女がどこにいてどんな表情をしているのかは見えるし、声も聞こえるので問題はないが、看護婦さんたちや他の患者さんに見えないのは困った点だ。目に見えない誰かと話しているところなんか見られたら、いよいよ頭がおかしくなったと思われてしまう。
「ハルはトーコがくるの、うれしいんですよ」
「舞衣」
 舞衣はいつも通りにこにこと嬉しそうに笑っており、高藤君は仏頂面でそっぽを向いている。私は苦笑して、簡易椅子に腰を下ろした。
「それじゃ、嬉しいついでに教えてほしいんだけど」
 思い切ってそう切り出せば、高藤君は目線だけでこっちを見る。
「あの踏切にいたっていう幽霊はどうなったの」
「祓ったよ。もう悪さはできない」
 彼は一旦言葉を切り、目を逸らして続けた。
「萱島のお父さんに化けたのは、萱島を引きずり込むためだ。あれは本物のお父さんじゃないから」
「そんなの分かってるわよ」
 反射的に喧嘩腰で答えてしまったことに気付き、私ははっと口をつぐんだ。高藤君はまた目を逸らしている。違う、今日は言い争いをしに来たわけじゃない。私は心を落ち着かせると、もう一度口を開いた。
「どうして、私だったの。私がいつまでもお父さんのこと気にしてるから、それがいけなかったの?」
 高藤君がきゅっと眉根を寄せた。私は逃げるように視線を落とす。舞衣が私と高藤君を交互に見比べている。
 しばらく間を置いて、高藤君は答えた。
「言ってもいいけど、泣くなよ」
 舞衣が非難するような目で彼を見上げるが、口を挟もうとはしなかった。
「死後もこの世に留まるのは地縛霊だけじゃない。亡くなったその人自身は成仏できたとしても、その人の感情だけがこの世に残ることだってある。亡くなった人が大切にしていた人形が動き出したとか、そういう話はよくあるだろ。それと同じだ。萱島には、萱島のお父さんが残した感情が留まっている」
「感情って……」
「それは後で説明する。萱島がお父さんに守られているのは、霊感のある人間なら見ただけで分かる。それぐらい強い感情だからだ。そして、同じく霊体であるあの踏切の地縛霊にも、嫌ってほどよく見えたんだろうな。死してなお娘を守る父親を見て、あれだけ萱島に執着し出したんだ。きっと、あの霊の未練は、この世に残した家族のことだったんだろう。自分は踏切に縛られてどこへも行けない。愛する家族にもう一度会うこともかなわない。……そんな状況じゃ、萱島のことが羨ましくて仕方なかったんだろ」
 脳裏に、踏切で見た偽物のお父さんの笑顔が浮かぶ。あの霊も本当は私でなく、自分の家族にあの笑顔を向けていたかったのだ。私が本当のお父さんにもう一度会いたいと思ったように。
 私は顔を上げた。高藤君と目を合わせ、震えはじめた声で尋ねる。
「お父さんが私を守っているって、本当なの」
「ああ」
 高藤君はあっさりと頷いた。喉の奥で、そんなの嘘だ、まやかしだ、と叫びそうになる。それを飲み込んで私は首を横に振った。
「でも、私、お父さんが見えない。舞衣ちゃんは半透明でも、見えてるのに」
「お父さん本人はもう成仏してる。あくまで思いが残っているだけだから、萱島の霊感じゃ何も見えなくても当然……」
「トーコ」
 困り顔で言いよどんだ高藤君を遮って、舞衣が私の眼前にふわりと浮きあがった。
「トーコはお父さんが亡くなるまえ、霊を見たことがあるでしょう」
「え、うん……たぶん」
「それではお父さんが亡くなってから、霊を見たことはありますか」
「……ない」
 少し考えて首を振る。考えるまでもないことではあった。どれだけ見たいと思っても見えることはなかったのだから。
「ふみきりの霊は見えましたか」
「お父さんの姿をしてたわ」
「そうじゃないときは、見えなかったのですね」
「……うん」
 舞衣の言う通りだ。踏切で立ち往生したのも、植木鉢が降ってきたのも幽霊の仕業だと言われたが、お父さんの姿で手を引かれた時以外に、それらしきものが見えたことはなかった。それだから余計に現実味がなかったのだ。
「きっとトーコのお父さまは、トーコのしあわせをさいごに祈ったのです。つらいこと、こわいもの、かなしいことは見えなくていい。トーコのための、あかるいしあわせな世界で生きていってほしいと。だから、トーコの目にはこわいものは映らないのです」
 そう言った舞衣の顔はとても優しかった。ふと、生きていた頃のお父さんの、本物の優しい笑顔を思い出し、私は慌てて瞬きを繰り返した。また泣いてしまう。
「なるほど」
 感心したように高藤君が頷いた。
「お父さんは怖くないから、お父さんに化けた時だけ地縛霊の姿が見えたんだな」
「だからワタシは、トーコにワタシが見えることが、とてもうれしいです」
 きらきらと輝くように無邪気な笑みを舞衣が向けてくる。私はそれに何も答えることができなかった。幽霊なんか現実にはいないはずだったのだ。それは死を受け入れられない人間が、自分の心を守るために生み出した幻想に過ぎないはずなのだ。それなのに。
 やっぱり泣くんじゃないか、と呆れたように零した高藤君の声は、今まで聞いた中で一番柔らかい声だった。





前頁へ 目次へ 表紙へ