其の二


 こぼれ出した涙は、自宅に帰りつく頃にはもう止まっていた。頬を拭うこともせずここまで一直線に走ってきたので、きっと私の顔はぐちゃぐちゃだろう。人通りの少ない曲がり角で立ち止まり、鞄から取り出したハンカチで顔を覆った。目をこすっては赤くなってしまうだろうけれど、もう手遅れだろう。
 こんなに泣いたのは久し振りだ。私は鼻をすすり、ハンカチで目を押さえたままぼんやりと立ち尽くした。このまま家に帰れば、きっと台所で夕食の準備をしている祖母と出くわすことになるだろう。赤く腫れた目元に涙声では、何があったのかと面倒な追及を受けること間違いなしだ。適当にごまかすことができたとしても、祖母は私のことを心配するだろう。余計な心労を増やしたくはない。私は踵を返し、近所の公園へ向かった。
 公園とは言っても、そこは住宅地の片隅にある小さな広場だ。家一軒分ほどの狭い空き地に、色を塗られたタイヤやブランコ、シーソーなどが申し訳程度に置かれているだけの場所である。近所の小学生が遊んでいる姿を見かけることもあるが、小学校の校庭にある遊具の方がよっぽど大きく立派なためか、大抵は閑散としていた。果たして今日もその公園に子供たちの影はない。
 私は夕日に照らされるブランコにゆっくりと腰を下ろした。俯いた視界には背中を丸めた私の黒い影が長く伸びている。戯れに地面を蹴れば、ブランコは私の影を揺らしながらキーキーと耳障りな音を立てた。
「おねえさん」
 小さな足が影を踏む。顔を上げると、いつの間にか目の前には例の少女が立っていた。色素の薄い髪と目は夕日に照らされて橙色に染まっている。夕暮れ時にふさわしく憂えた表情を浮かべた少女の顔がやけに大人びて見えた。少女は深々と頭を下げる。
「ごめんなさい」
「えっ……」
「ハルがひどいことを言いました。だから、あやまりにきました」
「ちょ、ちょっと、止めてよ。顔上げて」
 私が焦って立ち上がるのと同時に、少女は不安げに顔を上げた。こんな小さな子を相手にして私は何をやっているんだ。私は頬の筋肉を意識的に動かし笑顔を作った。
「あなたは何も悪くないよ。今朝、踏切で助けてくれたでしょ。ありがとう。あなたのおかげで助かったのよ」
 気の利いた言葉は出てこなかったが、それでも少女の顔は少し明るくなる。
「ハルっていうのは、高藤君のこと?」
「そうです。ヨシハル、では、長いのです」
「そっか。もしかしてあなた、高藤君のい……親戚の子なの」
 妹なの、と聞こうとして、ありえないことに気付き慌てて訂正する。高藤君はいっそ羨ましいほど綺麗に真っ黒な髪と目をしているのだから、まさかこのハーフの少女と兄妹というわけではないだろう。顔立ちだってあまり似ていない。だからといってあの無愛想な中学生男子とこの少女が友達だとは思えなかった。二人に関係があるとすれば遠縁の親戚とかその辺りだろう。
「そう見えるのですか?」
 ぱっと花が咲いたかのように、少女の顔がほころぶ。私は瞬きをした。何がそんなに嬉しいのだろう。
「しんせきではないです。ハルとワタシは、あいぼうなのです」
 少女は小さな胸を誇らしげに張りながらそう言った。私は内心で首を傾げつつも、とりあえず笑ってそうなんだ、と答える。
「おねえさんの名前はなんですか」
「透子だよ。かやしま、とうこ。あなたは?」
「ワタシのなまえは、マイです。ころもがまう、きれいな名前です」
「舞衣ちゃんか。うん、確かに綺麗な名前だね」
「トーコは、霊がきらいですか」
 言葉に詰まった。唐突な質問だったというのもあるが、先程の高藤君との諍いを思い出させられたのだ。彼に平手を喰らわせた右の掌を握りこみ、舞衣の幼い顔を見つめ返す。舞衣は口をつぐんだ私を不思議そうに見ていた。相棒を叩かれたことを怒っているわけではないらしい。
「あんまり、好きではないかな。舞衣ちゃんは幽霊とか、本当にいるって思う?」
「霊はいますよ」
 さも当然だと言うように頷かれてしまい、私はそっか、と答えて視線を落とした。
「見たことあるの?」
「はい」
「……どんな感じだった?」
「いろいろな霊がいます。かたちもいろいろです。トーコも見たことがあるでしょう」
「うん」
 何故か私は素直に頷いてしまった。だが舞衣はおもしろがるわけでもなく、茶化すわけでもない。
「トーコが見たのはどのような霊ですか」
「覚えてない。すごく怖かったような気がするけど……ただの夢なのかもしれない」
「忘れてしまったのなら、その方がきっといいのです。それが祈りだったのでしょう」
「え?」
 舞衣の言葉の意味が分からず、私は顔を上げて聞き返した。彼女は何も答えない。夕日が沈んだ薄暗い夕闇の中、十歳の子供とは思えないほど優しげな笑みを浮かべ、私を静かに見下ろしている。小さな手がゆっくりと私の方へ伸びる。頭を撫でられた、ような気がした。
「トーコ、もう帰るじかんです。どうか、あのふみきりはもう通らないで」
 手が髪を撫でた感触はなかった。優しく言い聞かせるような声が途切れるのと同時に、舞衣の姿は黄昏に霧散するように掻き消えてしまったのだった。


 次の日の朝。私はまたいつもの踏切の前でじりじりと太陽に焼かれていた。カンカンとうるさいサイレンを聞きながら、ぼんやりと昨日のできごとを思い返してみる。
 昨日私が見聞きしたことは、どこまでが現実でどこからが夢だったのだろうか。学校の帰りに高藤君と言い争いになったのは現実だろう。思いっきりひっぱたいた感触をはっきりと覚えているからだ。問題は舞衣と名乗った少女のことだ。人間が消えるなんてありえない。ありえないのに、昨日の私はその光景をしっかりと目に焼き付けてしまった。あれは白昼夢だったのだろうか。もし夢だったのだとしたら、どこからが夢だったのだろう。公園に彼女が現れたところからだろうか。だがそれにしては、私は彼女と交わした言葉をちゃんと覚えている。会話だって夢のような不自然さはなかった。そうすると、やはりあれは現実だったのか。
「ひゃっ!」
 突然誰かに手を引かれ、私は悲鳴を上げてたたらを踏んだ。振り返るとすぐ近くに昨日と同じ高藤君の怒り顔が迫っている。
「なんでまたここにいるんだ」
 冷静になろうとしているのか、高藤君はかなり語調を抑えていた。私は掴まれた腕をぱっと振り払い、むかつく気持ちを抑えながら彼を睨み返す。彼と私は小学校が別なので、彼の家は隣の校区――つまり踏切のあちら側にあるはずだ。始業前の登校時間に、学校から離れたこんな場所でなんの用事があるというのだろうか。
「なんでって、登校してるのよ。ここを通らないと学校まで行けないんだから仕方ないでしょ。あんたこそこんな所で何してるの」
 高藤君は答えようと口を開き、何故か一瞬ちらりと頭上に目を向けた。私もつられて上を見る。
「いやっ!」
 両肩を強く押され、油断していた私は上を向いたまま後ろにすっ転んだ。視界がぐるりと空を向く。夏の青い空を背景に、見えたのは宙に浮いた小さな植木鉢だった。
 ごす、と嫌な音がする。跳ね起きた私のすぐ横を、アスファルトの上に落下した茶色の植木鉢が土をばらまきながら転がっていく。すぐには立ち上がることができなかった。私の足の上に覆いかぶさるようにして、高藤君がうつ伏せに倒れていたからだ。
「高藤君!」
 彼はぴくりとも動かない。頭と背中に土がついているところを見ると、植木鉢は恐らく彼に直撃したのだ。目の前の家のベランダから落下してきたのだろうか。ベランダに人影はない。転がっている植木鉢と同じものがいくつか手すりにぶら下げられているのが見えた。私はごくりと唾を飲み込んで、気を失っている彼の肩を揺する。
「ちょっと、起きてよ、ねえ」
 声が少し震えた。彼はまだ反応してくれない。
 植木鉢はそれほど大きなものではないし、小さな白い花が植わっているぐらいで土の量も少ない。なにより素材はプラスチックかなにか、とにかく軽そうなものだ。いくら二階から落ちてきたといっても、一撃で人を死に至らしめるほどの威力はないのではないか。ちょっと当たり所は悪かったのかもしれないが。
「ねえ、起きてってば」
 身を乗り出そうとして、右の足首にずきりと鈍い痛みを感じる。高藤君の下敷きになってよく見えないが、足を捻ってしまっただろうか。周囲がざわざわと騒がしくなってきた。人通りの少ない道ではあるが、朝早く社会人も学生も通る道だ。中学生が路上で倒れていれば騒ぎにもなるだろう。私はどこか他人事のようにそのざわめきを聞いていた。
 後から聞いた話では、救急車のサイレンの音が近付き、救急隊の人や野次馬のおじさんたちに止められるまで、私は高藤君に縋り付いて半狂乱になっていたらしい。よく覚えていないのだが、その間彼が気を失っていたのは、ある意味幸運なことだった。




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