G線上のアリア

 昔からの商店街にはシャッターが下りたままの店も少なくない。お父さんが子どもの頃には魚屋さんや肉屋さんなどのお店がたくさんあったが、近くにスーパーができてから少しずつ減っていったそうだ。本屋さんとか靴屋さんみたいにまだ普通に営業しているお店もあるのだが、商店街全体としてはどこか寂れた印象だ。
 そんな色褪せた通りの一角に、鮮やかに目を引く小さな花屋さんがあった。入り口のガラス戸の両脇に所狭しと色とりどりの花が並べられている。カーネーション、バラ、百合の花、他にも僕が知らない花がたくさん咲き誇っている。
「こんにちは」
 花屋さんの中は六畳ほどのごく狭い売り場だ。そこへ温度管理をするための大きなケースと、外に並べきれないたくさんの花々を置いているものだから、歩き回るようなスペースはないに等しい。それでも不思議とお客さんは絶えないようで、僕が遊びに来ると大体いつも常連さんがお喋りをしている。今日も、挨拶をしながら入っていった僕に、レジカウンターを挟んで話していた二人のおばあさんが答えた。
「お帰りなさい、蓮ちゃん」
「あら、お帰りなさい」
 レジの向こうにいるのがこの店の店主である僕のおばあちゃんで、向かいに座っているおばあさんが常連のお客さんだ。僕は名前を知らないけど、ここへ遊びに来たときに何度か顔を見たことがある。
「ただいま」
 にこにこ笑っている二人につられて、僕も照れ笑いをしながらぺこりと会釈した。自分の家ではない場所でただいまを言うのは、なんだか少し恥ずかしいようなちょっと変な気分だ。
「叔父さーん、聞きたいことがあるんだけど」
 僕はレジよりもう一歩奥の方にある作業台に向かって声をかける。そこではエプロンを身に着けた叔父さんが慣れた手付きで赤いガーベラの葉をぱちんぱちんと切り落としていた。
「奥へ行ってなさい」
「はーい」
 叔父さんは顔もあげずに素っ気ない返事をするが、これはいつものことだ。僕は気にせずに店の奥へずんずんと進み、居住スペースにつながる戸を開けて靴を脱ぐ。この小さな花屋さんはおばあちゃんと叔父さんが暮らす家でもあり、お父さんが子どもの頃に住んでいた実家でもある。同じ町内に住んでおり小さい頃から何度も遊びに来ているので、勝手知ったるものだった。とりあえず叔父さんの部屋で待とうかと背を向けた僕の耳に、店内のおばあさんたちの会話が聞こえてきた。
「お孫さん大きくなったわねえ」
「そうなの、来年は中学生になるのよ」
「あらー、もうそんなになるの」
「子どもの成長って本当に早いわねえ」
 しみじみと嬉しそうな声色が照れくさい。僕はそそくさと叔父さんの部屋へ向かった。
 叔父さんの部屋は和室だ。畳敷きの部屋の中には背の高い本棚が三つほど並んでいて、重たそうな本がずっしり詰まっている。そのうちの何冊かは本棚から抜き取られ文机の上に乱雑に積み上げられていた。部屋自体はそこそこ綺麗に片付いているのに、文机の上には文房具や手紙類が散乱している。僕は本棚の前にランドセルを下ろし、縁側に続く障子戸を開けた。傾き出した日の光が部屋に差し込んでくる。
「また霊でも見つけましたか」
「あ、ううん、そうじゃないんだけど」
 入ってきた叔父さんに声をかけられ、僕は咄嗟に否定してしまった。実際その通りなのだけれど、本当のことを話せばもう幽霊のお姉さんと会うことはできないだろう。叔父さんならばお姉さんをあの世へ送ってあげることができる。それが拝み屋である叔父さんの仕事だからだ。叔父さんが仕事をする時、僕はいつも危険だからと連れて行ってもらえない。僕がまだ小学生だからだ。今回は蚊帳の外に置かれたくはないのだ。僕の知らない間にお姉さんがこの世からいなくなってしまうのは嫌だった。
 花屋のエプロンをしたままの叔父さんは意外そうに僕を見て、そうですか、と小さく呟いた。文机の前に腰を下ろし、散らばっている書類を整頓しながら僕に説明を促す。
「その、幽霊を成仏させる方法を知りたいんだ」
「そんなこと聞いてどうするんですか」
「え。えっと……」
 叔父さんが眼鏡の奥の目を眇める。僕は一生懸命頭を回転させて、叔父さんが納得してくれそうな理由を考えた。
「その、いつも叔父さんがどういう風にお仕事してるのか、見たことないから。どんな感じなのか聞いてみたいなーって思って……」
 ぽつぽつと苦しい言い訳を絞り出す。ちらりと叔父さんの顔を見上げると、彼は表情をぴくりとも動かさずに僕を見つめていた。僕は思わず唾を飲み込んで目を逸らしてしまう。怪しまれているだろうか。叔父さんは普段からあまり表情豊かな方ではないから、何を考えているのかよく分からない。
 しばらくの沈黙の後、叔父さんがため息混じりに口を開いた。
「まあ、いいですよ」
「え」
「蓮くんも来年から中学生になるんですし、簡単に話すくらいならね」
「いいの?」
 胸の内がぱっと明るくなった。どうやらお姉さんの幽霊のことは話さずに済みそうだ。ごめんなさい叔父さん、と心の中で謝ってから、僕は文机の反対側に座り込んだ。叔父さんが頬杖をついて僕に尋ねる。
「それで、何が聞きたいんですか」
「幽霊を成仏させるにはどうすればいいのか知りたい」
「成仏、ねえ……」
 叔父さんはちょっと首を傾げる。
「蓮くんはそもそも、成仏するということはどういうことだと思いますか」
「え? うーんと、亡くなった人があの世に行くこと、かな」
「そうですね。正確に言うと、あの世へ行くのは亡くなった人の霊魂です。人は亡くなるとその霊魂だけが彼岸へ渡り、此岸に残された肉体は荼毘に付され、お骨はお墓に納められて子孫の供養を受けます。いかなる生物も肉体を持ったまま彼岸へ渡ることはできません。それは分かりますね」
「うん」
「あの世は霊魂の世界です。それに対して、この世は物質の世界です。肉体を持ってあの世へ行くことができないのと同じように、肉体を持たないものはこの世に留まることができません」
「え、でも」
 今度は僕が首を傾げた。肉体を持たないものとは、それこそ幽霊みたいなものを指すのだろうが、そんなものはこの世のあちこちにごろごろしているではないか。
 叔父さんは僕の心の中を読んだように頷いた。
「そう、実際にはこの世にも肉体を持たないものが存在しています。ただ、それはあくまで例外なのだと考えてください。普通ならこの世に存在できないはずのものが存在している。ならばそこには何か理由があるはずです」
「理由って、なに?」
「まあ、いろいろありますが……共通して言えるのは何らかの力を持っているということですね。例えば、いわゆる心霊スポットと呼ばれる場所の中には、本当にその土地が力を持っていることがあります。その土地で亡くなった人の霊が土地の力に影響されてこの世に留まってしまう、ということが起こり得る。そういう場合は霊と土地とのつながりを断ってやればいいんです。土地の力の影響を受けなくなれば、余計な手出しをしなくても自然と輪廻に返っていくことができる。要するに、霊魂をこの世につなぎとめている何らかの力から解放すればいいんです」
「土地の力……」
 僕は市民ホールを思い浮かべた。学校で流れる心霊スポットや心霊現象についての噂はなるべく耳に入れるようにしているが、市民ホールに幽霊が出たという話は聞いたことがない。あのお姉さんの他に幽霊らしきものもいなかったし、あのホールが特別な力を持っているというわけではないのだろう。
「心霊スポットじゃなくても、幽霊がいることもあるよね」
「そうですね」
「そういう、特に土地の力があるわけじゃないのに、あの世へ行けない幽霊はどうすればいいの」
「同じですよ。この世から離れられない原因を取り除いてやればいい。未練を断ち切ってやるとかね」
「未練?」
「心残りがあるということです。この世でやり残したことや気がかりなことがあって、その思いの力が強いあまりにこの世を彷徨っている霊も多くいますからね」
 あのお姉さんにも何か未練があるのだろうか。最初に思いつくのは、妹さんの結婚式に出席できなかったと言っていたことだ。事故に遭って亡くなってしまったせいで大切な家族の晴れ舞台を見ることができなかった。それはやっぱりとても悲しいことなんじゃないだろうか。僕が同じことになったらどう思うだろう、と二歳年下の自分の妹の顔を思い浮かべてみたが、小学生の僕たちには結婚という言葉がまだぴんと来なかった。
「未練かぁ」
 お姉さんの優しい微笑みを思い出すと胸の奥がせつなく痛んだ。あの穏やかな人にも、生きているうちにやりたかったことがまだまだあっただろう。一緒にいたい人もいただろう。お姉さんの年齢は聞かなかったけれど、あの人がおばあさんになるまでにはまだ何十年も時間があったはずだ。その何十年分の心残りをなくすことなんて本当にできるのだろうか。
 叔父さんはそこまでしか教えてくれず、その後はいつも通り、怪しいところへ一人で近付かないようにと諭されただけだった。もう少し詳しいやり方まで聞き出したかったのだが、あまり食い下がると怪しまれてしまう。僕は適当なところで切り上げることにした。

 次の日、学校が終わると僕はまっすぐに市民ホールへ向かった。昨日壊してしまった搬入口のドアはまだそのままで、忍び込むのは簡単だった。
 二階の小ホールも昨日のまま、佇むお姉さんも昨日のままの姿でそこにいた。椅子に腰掛けて窓の外を眺めていたお姉さんは、僕が入ってきたことに気付いて振り向くと笑顔を見せてくれた。また頬が熱くなる。僕は笑い返そうとしたが、口の端に力が入ってしまってうまく笑えなかった。お姉さんに変な顔、と思われるのが怖くなり、うつむいてランドセルを下ろす。
「あのね、僕、どうすればあの世に行けるか、聞いてきたんです」
「うん」
「未練をなくせばいいって」
「未練?」
「うん、やり残したこととか、気になってることをすっきりさせればいいんだって。だからね、お姉さん何かやりたいことはない?」
「やりたいこと……」
 お姉さんはちょっと困った顔で首を傾げた。
「僕ができることならなんでも手伝います」
「ありがとう。でもね、やりたいこと、特にないのよ」
「え?」
 思わず聞き返してしまった。やりたいことがないなんて、そんなはずはない。このホールの中にはお姉さん以外の幽霊の気配も姿もないのだから、ホールに何か問題があって成仏できないというのは考えにくい。ならばお姉さん本人に何か未練があるはずなのだ。それが自分で分からないなんてこと、あるのだろうか。
「ごめんね」
「ううん」
 お姉さんが申し訳なさそうに謝るので、僕は慌てて首を振った。本当は謝らなければいけないのは僕の方なのだ。叔父さんにお姉さんのことを正直に話してここに連れてくれば、すぐにお姉さんをあの世へ送ってくれるだろうから。叔父さんはいろんなことを知っているし、いろんな術を使うことができる。僕がまだ存在すら知らないこともたくさん知っているだろう。それが分かっていて嘘をついたのだから、僕は僕なりにできることを一所懸命やらなくちゃいけない。
「じゃあ、お姉さん、ピアノはどうですか」
「ピアノ?」
 僕はお姉さんについてほとんど何も知らない。手がかりの乏しい中、未練として唯一思い当たるのは昨日教えてもらった妹さんの結婚式のことだ。
「妹さんの結婚式に出られなかったって言ってましたよね。だから、結婚式に出てピアノを弾きたかったんじゃないかなって」
「ああ……そうね。確かに結婚式は未練かもしれないわ」
「やっぱり」
 僕はアップライトピアノの置かれた少ステージに上がる。蓋の開かれたままのピアノは薄く埃をかぶっているが、埃をはらってしまえば普通に使えそうだ。試しに鍵盤を一つ押して見ると、ポーンと少しくぐもった音が鳴った。黄ばんだ鍵盤に僕の指の跡がつく。
「ピアノ、弾いてみようよ。ちょっと遅くなったけど、妹さんに聞かせるつもりで」
「でも」
 お姉さんも窓辺の椅子から立ち上がり、ピアノの方へ歩いてきた。ステージに上がり、透き通った細い腕をピアノに伸ばす。白い指が鍵盤に触れようとして、するりと通り抜けた。
「ピアノには触れないみたいなの」
「あ、そうか……じゃあ」
 僕は腕を組んで考える。一つ解決法を思いついたが、口にするかどうか迷うところだった。叔父さんに内緒で幽霊と仲良く話している今の状況でもすでに見つかったらまずいのに、この解決法を使えば怒られるどころでは済まないかもしれない。
 だが、隣でピアノの鍵盤を見下ろしながら悲しそうに目を伏せているお姉さんの横顔を見ているうち、僕の口は勝手にその解決法を喋ってしまった。
「あの、お姉さん。僕に取り憑けば、ピアノにも触れるようになると思います」
 お姉さんはびっくりした顔で僕の方を向いた。驚いた顔もきれいだなあ、なんて呑気なことを僕は思った。
「でも、そんなこと、していいの?」
「う……うん、たぶん、あんまり、よくないけど……僕、お姉さんの助けになりたいから」
 後ろめたい気持ちと恥ずかしさと、少し怖い気持ちでうつむきながらぼそぼそと呟く。お姉さんはしばらく黙っていた。顔を見ていないから分からないけれど、迷っているような気配がしていた。
 ややあって、迷いを含んだ声でお姉さんが尋ねる。
「その……人に取り憑くのって、どうすればいいのかしら」
「え?」
「私、死んでから気が付いたらずっとここにいたけど、人と話したのはあなたが最初よ。このホールが使われている間も使われなくなってからも、私のことが見える人はいなかった。いつもぼんやり眺めているだけで、誰かに取り憑こうなんて考えたことなかったの。だから、やり方が分からないわ」
「そうなんだ」
 僕は内心ほっとしながら頷いた。もちろん僕は生きた人間だから、幽霊がどうやって人に取り憑くのかなんて分からない。叔父さんにもやり方は分からないんじゃないだろうか。ただ、叔父さんの仕事にくっついて行ったとき、幽霊に取り憑かれた人は見たことがあった。その幽霊は暗い恨みに満ちていて、取り憑かれた人は別人のようになって僕たちに襲いかかってきたのだ。叔父さんがすぐに祓ってくれたので実際に危害を加えられることはなかったが、あれは嫌な思い出だ。やっぱりこの方法は駄目だ。もしお姉さんが僕に取り憑いたらピアノに触れるようになるかもしれないが、お姉さんが悪霊に変貌してしまうかもしれない。そうなれば僕も無事じゃ済まないだろう。
「ごめんなさい。僕も、やり方は分からないんだ」
「そう」


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