G線上のアリア

 歩道に敷かれた赤レンガは長年の風雨にさらされてすっかり色褪せてしまっている。レンガの隙間からは雑草が好き放題に伸びており、しばらく誰もここを通っていないことを示していた。歩道の周囲に広がる芝生も刈り込みされていない。青々と茂った葉桜の並木の下には茶色く変色した花びらがまだ残っていた。並木の向こうには古い市民ホールが建っている。小豆色のタイルが貼られた外壁は歩道と同じように古びて褪せてしまっていた。
 僕は人目のないことを確認してから歩道へと足を踏み入れた。少し窮屈になってきたランドセルが背中でカタカタと音を立てる。ここへ来るのは幼稚園の時以来だ。あれは町の文化祭かなにかだったのだろう、ステージ上で歌を披露したような覚えがある。今は老朽化のため、取り壊して建て替えする予定なのだとお母さんが言っていた。立入禁止になってから何年か経ったがまだ工事が始まっている様子はない。
 正面入口の重たそうなドアには鍵がかかっていた。僕は建物に沿って回りながら、手の届く窓やドアを一つ一つ確かめていく。どの窓にもしっかりと内鍵がかかっている。さすがに侵入するのは無理だろうか。そう思いながらも裏手へ回ってみると、そこは搬入口になっていた。芝生が途切れ、アスファルトで舗装された道路につながる搬入口には大きなシャッターが下りている。シャッターの横には薄いアルミ戸があった。ここもちゃんと施錠されているが、ノブを回して引っ張ってみるとぎしぎしと嫌な音を立ててきしんだ。大人がやれば力づくで開けられるんじゃないだろうか、と思いながら僕は体重をかけて引っ張ってみる。開いてしまったらどうしようという気持ちと、まさか開きはしないだろうという気持ちが胸の中でせめぎ合った。
 ばきっ、と何かが折れる音が聞こえ、同時に僕は勢い良く後ろにひっくり返った。
「うぎゃっ」
 コンクリートの上に尻餅をつき顔を上げると、アルミ戸が開いていた。壊してしまった。僕は慌てて立ち上がり周囲を見回すが、芝生の方にも道路の方にも人影はない。誰にも見られていないようだ。ほっと息をつき、人が来ないうちにと急いで中に滑り込み戸を閉める。静かに閉めたつもりだったが、古くなったアルミ戸は黒板を引っ掻くような耳障りな音を立てた。
 搬入口の中は真っ暗だった。窓がないのか、明かりはアルミ戸の曇りガラスからわずかに注ぐ外の光だけだ。僕は壁伝いに手探りでドアを探し、最初に見つけたドアを開ける。ぱっと視界が明るくなった。ドアの先は細長い廊下になっていて、右手の壁にはドアが三つ並んでいる。左手の壁には窓があり、芝生の伸びた庭が見渡せた。僕は廊下をまっすぐ進み、突き当たりにあった両開きのドアを押し開ける。
 広い空間へ出た。さっき開かなかった正面玄関に続くエントランスホールだ。二階まで吹き抜けになっていて、中央に装飾された豪華な螺旋階段が鎮座している。幼稚園の時に見たかすかな記憶ではもっとソファやら机やらが置かれていたような気がするが、それらはもう片付けられてしまったようだ。カーペットすらない殺風景なホールの壁には教科書に出てきそうな変な模様の壁画が寂しく飾られていた。僕は螺旋階段を上り二階へと向かう。
 二階もエントランスホールと同じようにがらんとしていて、何も置かれていなかった。両側の壁には窓がありそこから外の光が差し込んでいる。突き当りの壁には体育館みたいな大きな両開きのドアがあった。僕の目的地は多分ここだろう。
 ドアを開けて部屋の中へ入ると、眩しい光が目を焼いた。そこは学校の教室よりも一回り大きな半円形の部屋だった。ぐるりと大きな窓で囲まれたような開放的な部屋だ。やはりここもテーブルや椅子などの家具は片付けられているが、窓辺には黄ばんだレースカーテンがそのまま残されていた。日の光はカーテンを透過し、空中に舞う埃をキラキラと映し出してコンクリートがむき出しになった灰色の床に落ちる。僕は後ろ手にドアを閉め、静かに深呼吸した。
 部屋の奥は床が一段高く小さなステージになっており、埃をかぶって白っぽくなったアップライトピアノが放置されていた。ビロード張りの小さな椅子はピアノの傍から窓の近くへと動かされている。椅子には赤いドレスに身を包んだ女の人が腰掛けていた。ドレスの上からベージュ色のカーディガンを羽織り、長い髪をまとめ上げたその人は窓の外を見つめていたが、ふと振り返って僕と目を合わせた。
 僕は生まれつき幽霊が見える体質だ。そう聞くと大抵の人は驚くだろうけど、僕の家ではそんなに珍しいことじゃない。僕の家では代々、悪い幽霊を退治したりお祓いをしたりする仕事をしている。亡くなったおじいちゃんや、おじいちゃんのお父さんもその仕事をしていたそうだ。僕のお父さんは長男だけど、いわゆる霊感を持たない人なので、今は次男の叔父さんが後を継いでいる。
 僕はまだ小学生だから、幽霊退治のやり方など仕事についてはほとんど教えてもらえない。あの世のものには僕たちの常識が通用しないのだから、一見無害そうに見えても決して手を出してはいけない。怪しい場所や危険なものを見つけたら近付かないこと。叔父さんはいつもそう言っていた。
 だから、今日ここに来たことは誰にも内緒だ。
「あの」
 僕はごくりと唾を飲み込んで赤いドレスのお姉さんに声をかけた。お姉さんは僕がまっすぐ目を合わせていること、僕ら以外誰もいないこの空間で話しかけたことで、僕の目にお姉さんの姿が映っていると理解したようだ。返事の代わりに小首をかしげ微笑んで見せる。
 その笑顔は、僕がこれまでに見たどんな人よりもきれいだった。クラスで一番かわいい佐々木さんより、テレビで大人気のアイドルより、ずっとずっときれいだった。ああ本当にこの人はこの世のものではないのだと僕は思った。窓から差し込む日の光に照らされたお姉さんの微笑みを見ていると、魂を抜かれてあの世へ連れて行かれてしまいそうだった。
「あの、お姉さんは、幽霊ですよね」
 僕は夢見心地で、分かりきったことを質問した。
「そうよ。あなた、怖くないの」
「こわくないです」
「度胸があるのね」
 褒められた。頬がカッと熱くなる。たぶん赤くなっているだろう。それをお姉さんに見られるのがなんだか恥ずかしくて、僕はうつむいた。
「こんな所へ何をしに来たの」
「お姉さんに言わなきゃいけないことがあって」
 ここに幽霊がいると知ったのはつい昨日のことだ。昨日は小学校のマラソン大会があった。高学年が走る距離は往復で3キロもある。小学校のグラウンドを一周して外の道路に出てまっすぐ南に進み、この市民ホールの前で東に曲がり折り返し地点で引き返すというルートだ。折り返し地点のカラーコーンをぐるりと周って戻ってくる間、500メートル程の間僕らの正面にはこの市民ホールが見えている。僕の目にはその間ずっと、二階の大きな窓の中に佇むお姉さんの姿がはっきりと映っていた。同じルートを走ったはずの同級生は誰もお姉さんのことを話題にしなかった。僕以外の人は誰もお姉さんの姿が見えなかったのだ。それはお姉さんがこの世のものではないという証拠だった。
「ここ、そのうち壊されるんです。新しいホールを建てるんです」
「そうなの」
「だから、お姉さんはその前に、あの世へ行かないといけないんです。幽霊は居場所がなくなってしまうと、悪い幽霊になって人を傷つけるようになってしまうかもしれないんです。お姉さんがそういう風になったら、その」
 どう表現していいか分からなくなり、僕は言葉を切った。
 肉体という殻を失った霊は周囲の影響を受けやすいのだと叔父さんから習ったことがある。生前にどんなに優しい人だったとしても、誰も憎んでいなかったとしても、この世に留まっている霊はちょっとしたきっかけで悪霊に変貌してしまう。たとえ本人が望んでいなくても、人の命を奪う恐ろしい悪霊になってしまうことがあるのだと。
 このお姉さんがそうなるのは嫌だと思ったのだ。
「詳しいのね」
 お姉さんは椅子から立ち上がった。赤いドレスの裾がさらさらと衣擦れの音を立てる。
「人に迷惑をかけるつもりはなかったの。ただ、気が付いたらここにいて、どうすれば行くべき場所へ行けるのか分からなかったのよ。あの世へ行けるならきっとその方がいいわ」
 澄んだ瞳を伏せ、お姉さんはピアノの鍵盤を指でそっとなぞった。
「あなたはあの世への行き方を知っているの?」
「あ、えっと……僕の先生に聞いてきます」
「ありがとう」
 微笑むお姉さんの指はするりと鍵盤を通り抜けた。お姉さんの姿はまるで生きている人のようにはっきりと見えているのだが、何故かピアノに近付けた手は透けて半透明になった。椅子には座ることができるのに、ピアノには触れることができないらしい。それでもお姉さんはピアノを撫で続ける。白黒の鍵盤をじっと見つめているお姉さんは何を考えているのだろうか。
「ピアノが好きなんですか」
「ええ。私、けっこう上手なのよ。ここで演奏するはずだったの」
 ピアノのコンサートということだろうか。僕は部屋の中をぐるりと見渡した。そこそこ広い部屋ではあるが、コンサート会場というには少し狭いような気がする。それに、実際に観たことはないが、コンサートというならアップライトピアノよりも大きなグランドピアノを使いそうなものだ。僕が考えていると、お姉さんは答えを教えてくれた。
「妹がここで結婚式を挙げたのよ。私は直前に事故で死んでしまったから出席できなかったの」
 自分の死についてお姉さんはあっさりと口にする。僕はどう答えるべきか迷って、結局言葉少なに頷くだけに留めておいた。
「そうなんですか」
 こういう時はどう声をかけるのが正解なのだろう。お気の毒です、というのは変に大人ぶっていて子供の僕が言うと嫌味みたいに聞こえそうだ。辛かったですね、悲しかったですね、と安易に共感するのも駄目だ。お前なんかに何が分かる、と言われてしまうかもしれない。当たり前だけど僕はまだ死んだことがないから死んだ人の気持ちは分からない。お姉さんがどんな気持ちでいるのか、僕には想像することもできない。
 ただ、触れないピアノをずっと撫で続けているお姉さんの指が、どんな音を奏でるのか聞いてみたかったと思った。


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