G線上のアリア

「うーん、何か他に、いい方法はないかな」
 考えつつ部屋の中を見渡すが、長らく使われていないホールにはアップライトピアノと僕のランドセルぐらいしかない。僕はランドセルを開けて、音楽の教科書とリコーダーの入った袋を取り出した。袋の口を開けてリコーダーを手に取ると、見ていたお姉さんの声が明るくなる。
「懐かしい。リコーダーね」
「お姉さんもやったことあるの?」
「もちろん! ねえ、教科書も見せてくれる?」
「うん!」
 ほっとして教科書を開いた。僕は音楽が得意な方ではなくて、歌うのもリコーダーも全然上手じゃない。知識も全然ない。それでも教科書に載っていて授業で歌った歌ぐらいは覚えていたから、お姉さんに話を合わせることはできた。
「あ、エーデルワイスが載ってるわ。これ好きなの」
「きれいな曲だよね。これリコーダーで吹いたことあるよ」
 僕は教科書を見ているふりをして、お姉さんの顔を盗み見ていた。音楽の話をするお姉さんは本当に楽しそうだ。ピアノを弾くときもこんな顔をするのだろうか。お姉さんにピアノを弾かせてあげることは本当にできないのだろうか。
「あっ……」
 ページを繰っていくと、お姉さんが声を上げた。お姉さんははっと口元を両手で押さえる。驚いたというよりはうっかり声が漏れてしまったという感じだ。
「どうしたの?」
 お姉さんは答えない。目が迷っていた。僕は追及しないことにした。
 開いた教科書には「G線上のアリア」の楽譜が載っていた。それはちょうど今、僕が学校で習っている曲だった。次の次の音楽の時間にリコーダーのテストがあるのだ。何度練習しても、同じところで指を間違えてしまい、うまく演奏できずにいる。そんなことを喋っているとお姉さんはちょっとだけ笑って、そっか、と相槌を打ってくれた。
「どうしてG線上のアリアって言うのか、知ってる?」
「知らない。どうしてなの?」
「バイオリンには弦が4本あるのだけど、そのうちの一つがG線って言うのよ。そのG線だけで演奏することができるから、G線上のアリア」
「へぇ、そうなんだ。お姉さんはバイオリンも弾けるの?」
「ううん、バイオリンは妹が弾いていたの。実はね、結婚式ではこの曲を演奏するはずだったの。私がピアノで、妹がバイオリン。私もあの子もこの曲が大好きだったから」
「そっか……一緒に演奏できなくて残念だったね」
 お姉さんはまた笑ったが、今度は悲しそうな顔だった。
「それがね、あんまり残念じゃなかったのよ」
「えっ」
「私、本当は結婚式に出たくなかったの」
「どうして?」
 驚いた僕は反射的に聞き返していた。聞いてしまってから、踏み込むべきじゃなかっただろうかと思ったが、お姉さんは気にした風でもなくあっさりと理由を教えてくれた。
「妹の結婚相手は私の好きな人だったの。私たちは幼なじみで、子供の頃からよく三人で遊んでいたわ。私はずっと彼のことが好きだったけれど、彼はずっと妹のことが好きだったんですって」
「そんな……」
「私の気持ちは誰にも話したことがなかったから、誰もこのことは知らないわ。もちろんこれからも言うつもりはなかった。ただ、二人の結婚式に出るのはつらいなあ、出たくないなあなんて思ってたら、事故に遭って本当に出なくてよくなっちゃったの」
 僕はじっとお姉さんの顔を見上げた。結婚だけでなく、誰かを好きになることだって、今の僕には縁遠いことだ。好きな人が自分の方を見てくれない、それがどれくらいつらいことなのか、僕には分からない。ただ、お姉さんがやり切れない思いを抱えたままこのホールに一人囚われていたのだと思うと、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「悲しいね」
 お姉さんは驚いた顔で僕を見た。
「悲しいかしら」
 視線を落とし、静かに繰り返す。
「私は悲しいのかしら。だから成仏できないのかしら……仕方がないって分かっているつもりなのだけど」
 僕は答えなかった。僕の目にはお姉さんはとても悲しそうに見えたけど、それを口にしてはいけないような気がした。
「でも、そうね。つらくても、結婚式に出られなかったのは心残りかもね。二人とも私の大切な人だから、できることならちゃんと祝ってあげたかった」
「お姉さん……」
 お姉さんにかけるべき言葉を探したが、僕には見つからなかった。元気づけられなくてもせめて何か言わなければ。そう思って言葉を選んでいる僕の耳に、ホールのドアが開く音が飛び込んできた。僕は慌てて振り返る。工事の人か、役所の人か、どちらにしろここに忍び込んだことがばれれば叱られる。
 ホールの入口に立っていたのは、叔父さんだった。僕はぽかんと口を開ける。
 それから頭の中で一所懸命言い訳を考えた。工事の人や役所の人ならお姉さんの姿は見えないだろうが、叔父さんが相手では隠せない。そして僕が立入禁止の市民ホールに忍び込み、お姉さんと仲良く話し込んでいる今の状況をうまく誤魔化す言い訳なんて、あるわけがなかった。
「な、なんで叔父さん、ここに……」
「蓮くんが何を隠しているのか見に来たんですよ」
 ため息混じりに答える叔父さんは花屋のエプロンをつけていない。全身黒っぽい服を着て、ポケットのたくさんついた上着を羽織っている。叔父さんが「仕事」をする時の服装だ。僕はどんな言い訳も無駄だということを悟った。バツの悪い顔で押し黙った僕と、幽霊を目の前にして落ち着き払った叔父さんとをお姉さんが不思議そうに見比べている。叔父さんはホールのドアを閉めお姉さんに近付いていった。
「突然失礼します。私はいわゆる、拝み屋を生業とする者です」
「あ、どうも、はじめまして」
 叔父さんが会釈をすると、お姉さんもきょとんとしたまま頭を下げた。
「貴女はこの建物が取り壊されることはご存知ですか」
「はい」
「解体工事が始まれば、貴女はもうここに留まることはできません。その前に冥界へお送りいたします」
「もしかして、この子の先生さんですか?」
 お姉さんに聞き返された内容が予想外だったのか、叔父さんは少し間を置いてから答えた。
「まあ、そうです」
「やっぱり! この子がちゃんと説明してくれましたよ。それじゃあ先生さんが私を成仏させてくれるの?」
「はい」
 叔父さんが頷く。僕の脳裏に、何度か見せてもらった叔父さんの仕事風景が思い起こされた。悪霊ならともかく、お姉さんのように大人しく漂っているだけの幽霊をあの世へ送るのはそれほど大変な仕事ではない。僕はまだやり方を知らないが、叔父さんならばすぐにお姉さんを成仏させてあげられるだろう。そんなことは最初から分かっていた。分かっていたから黙っていたのだ。当たり前のことだが、あの世へ行ってしまったら、もう二度と会うことはできない。僕は幽霊とか妖怪みたいなあの世の住人の姿を見ることができるけど、僕自身は生きた人間で、この世の住人なのだ。生きている限りあの世に行くことはできない。だから、お姉さんが成仏してしまったら、僕はもうお姉さんに会えない。
「だめ!」
 気付けば口から拒絶の言葉が飛び出していた。自分の声に背を押され、僕は両手を広げてお姉さんの前に立ちふさがる。向かい合う叔父さんは少しも動じることなく静かに僕を見ていた。後ろでお姉さんが驚いている気配がする。
「蓮くん」
「待って、まだ、だめなんだ」
 何かを言いかけた叔父さんを遮った。聞きたくなかった。僕はお姉さんの方に向き直り、両手を握りしめて訴える。
「だめだよ、このままあの世へ行ったら、お姉さんはずっと悲しいままじゃないか! そんなの僕はいやだ!」
 驚いたお姉さんの顔が、悲しげなものに変わる。透き通る白い指が僕の方へ伸ばされ、頬に触れようとしてすり抜けた。
「泣かないで」
「泣いてない!」
 僕がすかさず言い返すと、お姉さんは眉尻を下げたままくすりと笑う。それから何かを決心したようにきっと顔を上げ、叔父さんをまっすぐ見つめた。
「先生さん、一つだけお願いしてもいいでしょうか」

 僕とお姉さんはステージから下り、アップライトピアノの前に立つ叔父さんの後ろ姿を見ていた。叔父さんは上着のポケットの一つから墨文字で何かを書き付けた小さな紙を取り出し、それを口元に当ててぶつぶつと何かを呟いている。あの紙は叔父さんの仕事道具の一つだ。唱えている呪文にはあまり聞き覚えがない。
 呪文を唱え終えた叔父さんが紙をピアノに貼り付けると、その紙はまるで水に沈むかのようにピアノの中に吸い込まれていく。僕の目にはピアノが淡い光を放ったように見えた。瞬きをしているうちにその光は消えてしまい、後には元通りのピアノだけが残る。いや、元通りではなかった。埃を被ってくすんでいたピアノが磨き上げられたように窓からの光を反射している。鍵盤についた僕の指の跡も消えていた。まるで新品のようなぴかぴかのピアノがそこにあった。
「まあ、すごい」
 叔父さんと入れ替わりにステージに上ったお姉さんが歓声を上げる。子供みたいにそわそわとピアノの周囲を眺め、そうっと鍵盤を叩き響いた音にまた喜ぶ。
「本当に触れるわ!」
 ポーン、ポーンと響く音はとても澄んでいた。お姉さんは窓辺に置いていた椅子を運んできて、夢中で指を動かす。なめらかに流れるメロディは優しく上品で、音楽の教科書を見て楽しそうに笑ったお姉さんの笑顔を思い出した。僕がふらふらとステージに近付いていくと、お姉さんが声をかけてきた。
「ねえ、リコーダー、持ってきてちょうだい」
「え」
「一緒に演奏しましょう!」
 僕は慌てた。さっきも言ったけれど、音楽は得意ではない。歌うのもリコーダーもクラスの中では後ろから数えた方が早いような腕前だ。それはお姉さんも聞いていたはずなのだけれど、お姉さんは全然気にしていないようだ。
 リコーダーと音楽の教科書を抱えた僕がステージへ上がると、お姉さんは聞き覚えのある曲を弾き始めた。
「この曲……」
「分かるでしょ?」
 音楽の時間に先生が流すCDとは少し違ったけれど、さすがに何の曲かは分かった。もちろん「G線上のアリア」だ。お姉さんは僕が吹き始めるのを待っているようで、前奏らしき部分を繰り返している。
「ね、吹いてちょうだい。一緒に、あの子たちをお祝いしてほしいわ」
 僕は思い切ってリコーダーをくわえた。変に力んでしまったのか、最初にピッと高い音が鳴ってしまったが、どうにか続けてメロディを鳴らしていく。
 お姉さんの指が動くたびにポロンポロンと優しい音が弾む。僕はその音に導かれるようにして、おっかなびっくりついていく。そういう感じの演奏だった。お世辞にも上手いとは言えなかったが、僕は途中から少しずつ楽しくなっていった。お姉さんの奏でる音と僕の鳴らす音が重なって、リズムを取って、まるで二人で踊っているみたいだ。僕はなんだか嬉しくなって、つい口元がほころんで、それでまた失敗してピッと変な音が出る。それさえおかしくて笑顔になってしまう。
 夢のようなひとときだった。
 余韻を残し、最後の一音が奏でられる。僕がリコーダーを下ろすと、お姉さんは椅子から立ち上がり叔父さん一人しかいない観客席の方へ一礼した。僕もそれに倣ってお辞儀をする。
 顔を上げ、お姉さんの方を見ると、お姉さんの姿は薄く透き通っていた。
「お姉さん……?」
 窓から差し込む夕日に照らされ、お姉さんがきらきらとオレンジ色の光に包まれる。もともと半透明だったお姉さんの姿はろうそくの炎のように揺らめき、今にも消えてしまいそうだ。
「お姉さん!」
『私、なんだか満足しちゃったみたい』
 お姉さんは僕の方を見て、いたずらっぽく笑った。そして愛おしげに鍵盤をそっと撫でると、静かに蓋を閉めカバーをかける。ドレスの裾を払って立ち上がるが、足はもう消えてしまっていた。
『あなたのおかげで、ちゃんとお祝いできたわ。ありがとう』
 はっきり聞こえていたお姉さんの声も、もうささやくような細いものになっている。僕は何と答えればいいのか分からなくて、ただリコーダーを握りしめた。
 お姉さんが眠るようにすっと目を閉じた。それが合図であったかのように、お姉さんの姿が光の中へ消えていく。きらきらと揺れ、沈む夕日と一緒に消えていく。
 お姉さんの姿が完全に見えなくなる頃には、日もだいぶ傾いていた。ホールの中はだんだん薄暗くなってきている。何が起こったのか、分かるような分からないような変な気持ちだった。自分が嬉しいのか悲しいのかもよく分からない。
「蓮くん」
 叔父さんが話しかけてくれるまで、僕はそこにただ立ち尽くしていた。叔父さんは思ったよりも優しい顔をしていて、僕はほっとすると同時に少し寂しくなった。お姉さんは行ってしまったのだ。
「……よく頑張りましたね」
 ぽんぽんと優しく頭を叩かれ反射的に目を閉じる。叔父さんにしては珍しく優しい顔をしていた。
 うん、と小さな声で答えて、僕はもう一度ピアノの方を振り返った。もう夕日の入らなくなった薄暗いステージの隅には、元通りに埃をかぶった古びたアップライトピアノだけが静かに佇んでいた。






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