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■ 第5話 No.1866


 白い傷のついた鯨は頭部こそ凹んでしまっているものの、外から見た限りでは他に壊れているところは見当たらない。傷の部分を含めても船体には穴が空いておらず、内部がどうなっているのかはうかがい知ることができないが、先程の真っ二つに割れてしまっていた鯨よりはずっと電源がつく可能性が高いだろう。
 だが、この鯨は他のものと違って出入り口が閉じていた。電源が入っていない、つまりロボットが動いていないのならばあのドアは開けられないのではないだろうか。鯨の搭乗口は海の中で乗客を守る鉄壁の砦でなければならない。航海中にドアがほんの数ミリでも隙間を作ってしまえば、流れ込む海水から身を守る術はないのだ。ヴァンはドアの開け方を知っているのだろうか。
 リッツが前を行く彼女を見上げると、彼女はドアの方ではなく頭部の白い傷をじっと見つめていた。操縦室は頭部にあるから中の機械が壊れていないか気になるのかもしれない。凹んでいると言っても操縦室が潰れてしまうほどではなさそうだが。
「リッツ、ここの鯨はどういう順番で並んでいるの」
「この水路の一番奥が水門につながってて、捨てるときはそこから引っぱってくるから、ぼくたちから見て奥の方が新しく捨てられたやつだと思うけど」
「そっか」
 ヴァンはドアの横を通り過ぎ頭部に近寄っていく。傷だらけになっているのは正面部分だけで、サーチライトのある側面の方はきれいな状態で残っていた。ヴァンが手を伸ばし、ものを映さない目玉に手のひらを押しあてる。体重をかけて押し込むと、目玉はゆっくりと体内に沈んでいく。ヴァンの腕が肘のところまで埋まったとき、カチリと何かはまったような音がした。もしやと思ってリッツが振り返ると、ちょうど搭乗口のドアが静かにスライドして開いたところだった。
「中から操作できないときはサーチライトを押し込めばドアを開けられる。水に浸かっているときはちゃんと押し込まれても開かない作りになっているらしい」
「くわしいんだね」
「友達に聞いたんだ」
 開いたドアから鯨の中へ乗り込む。船内はこれまで見てきた鯨の中で一番状態がよかった。物が散らかっていることもなく、撤去されているというわけでもない。座席は整然と並び、床や壁にも目立った汚れは見当たらない。まるでこの鯨が使われていた頃からここだけ時が止まっているかのようだ。操縦室のドアもきちんと閉められている。幸いにも鍵はかかっておらず、ドアノブを回すとドアは軋みながら二人を中へ招き入れた。
 操縦室の中は客席に比べて少し散らかっている。とは言っても機械が壊れているわけではなく、散らかっているのはドライバーやネジなどの工具類だ。まるで工具箱をひっくり返した後のようだ。リッツは近くに落ちていたドライバーを拾い上げる。長い間人の手に触れられなかった持ち手は砂っぽくざらざらとした手触りで、金属部分も光沢を失ってくすんでしまっていた。
「これ、けっこう前のものだよ。ロボットももう動かないんじゃない」
「やってみなきゃ分からないだろ」
 ヴァンは操縦席を覗き込み手当たり次第にレバーを引いていくが、機械はうんともすんとも言わない。やっぱり駄目そうだな、とリッツは声に出さずに思った。現役で動いている鯨ならともかく、壊れて捨てられた鯨がそう都合よく動くはずもない。どうしてもマザーコンピュータとやらの情報が必要ならば、人に見つかる危険を犯してでも港の鯨に忍び込んだ方が良かったのではないか。電源の付け方すら分からない状態ではどちらでも結果は同じかもしれないが。
「スイッチの入れ方は教えてもらわなかったの」
 少し意地悪く尋ねてみると、ヴァンはあからさまに顔をしかめた。
「君は知らないかもしれないけど、普通は電源を落とすことなんてないんだよ。ほら、突っ立ってないで手伝って。起動させるまで帰す気はないからね。一人前のリッツ君は明日も朝早くからお仕事なんだろ?」
 仕返しとばかりに揶揄される。リッツは反射的に憎まれ口を返しそうになったが、ぐっとこらえて彼女に従い電源を探し始めた。いつまでも連れ回されているわけにもいかない。こうなればさっさと目的の達成を諦めてもらって、速やかにこの島から出ていってもらうべきだ。なんといっても、子供に、しかも女の子に指名手配がかかるなんてただ事ではない。彼女は厄介者なのだ。
 操縦席の周りのスイッチはヴァンが片っ端から試しているので、リッツは操縦室の壁を調べることにした。固くて薄い鉄板が一面に貼られているような冷たい壁の表面をぺたぺたと撫でていく。入口付近からスタートして操縦席を中心にぐるりと回っていき、スイッチらしきものを見つけたのはあと少しで一周するというときだった。平らな壁の表面に溝のようなものがあるのに気付き、指先でなぞってみるとその溝に沿って壁がぱかりと小さく蓋を開けたのだ。ちょうどお弁当箱を壁の中に埋め込んだようなささやかなスペースがあり、中にはこれ見よがしにボタンが一つ鎮座している。リッツはしばし逡巡したのち、人差し指を伸ばし恐る恐るボタンを押した。
『ウォームアップ開始』
「ひゃあ!?」
 裏返った声で悲鳴を上げたヴァンは余程驚いたのか、操縦席の背もたれにしがみついて正面の板状の機械を凝視している。機械音声はその板から発せられたらしい。
 リッツが近付いていくと、ヴァンははっと顔を上げ彼を睨みつけた。赤みの差した頬が羞恥心を隠しきれておらず、迫力はない。
「電源ついた?」
「見つけたなら見つけたって言ってよ! まったく……」
 リッツは聞こえないふりをして操縦席によじ登った。ぶつぶつ文句を言いながらもヴァンは座る位置をずらしリッツの入るスペースを作ってやる。
 板状の機械は何かを映し出そうとしていた。黒一色だった表面には濃いブルーの光が浮かび、時折引き攣れたような白い線が走っては消えていく。薄い板の下にたくさんのコードで繋がった機械が、まるで息を吐き出すように静かな音を立てて動き出した。ぽつりぽつりと機械のランプが光り出す。動き出した機械の音が一つずつ積み重なり、操縦席の二人を取り囲んでいく。どこか遠くでがたがたと物のぶつかるような音も聞こえてくる。リッツはいつの間にか口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。まるで血が通うかのように機械は息を吹き返していく。ついさっきまでは壊れてうち捨てられた、ただ朽ちゆくだけの物だったのに。
「お手柄だよ、リッツ。鯨のお目覚めだ」
 歓声を上げたヴァンの手が固まっているリッツの頭を撫でる。声の勢いのわりにその手つきは優しく、気圧されていたこともあってリッツは抗議するタイミングを失ってしまった。撫でられるままに少し視線を落とし、正面の板状の機械へまた視線を戻す。青一色だったはずの画面には「WELCOME TO NO.1866」と文字が浮かんでいた。
「1866番へ、ようこそ……?」
 あちこちランプが点いたとはいえ操縦室の中を照らすには不十分だ。薄暗い室内で白い文字はやけに目に眩しい。手で光を遮るようにしながらリッツはそれを読み上げる。
「ヴァン、これ、動かし方わかるの」
「分かるわけないだろ」
「はあ? それじゃどうするのさ。せっかく電源が点いたって何もできないじゃないか」
「最初から自分で動かすつもりはないよ。あとは交渉次第――」
『なによ』
 二人はぴたりと口をつぐんだ。操縦席の前の画面から発せられた機械音声が耳に届いたからだが、それだけではない。電源を入れたときの音声は男性のものにも女性のものにも聞こえる中性的で機械らしい音だったが、今聞こえてきたのはもっと高く女性らしい音声だ。さらに言えば、それは大人の女性ではなく生意気盛りの少女の声だった。
『ひとが気持ちよく眠ってるのに、わざわざ起こしてくれちゃって。いったい何の用があるのよ? あたしはもうお払い箱なんでしょ』
 少女と思しき機械は不機嫌丸出しの声で喋っている。リッツは慌てて操縦室の中を見回すも、当然ながら室内にはリッツとヴァンの二人以外人影はない。ヴァンが機械を操作してからかっているとも思えない。
「ロ、ロボットが、しゃべった」
「ロボットだって喋るくらいできるだろ」
「そうじゃない!」
 そういう意味じゃない、とリッツはかぶりを振った。旧時代のロボットや島の設備の中には人間との会話が可能なものも存在する。人間の言葉を聞き取り、予め登録された音声のうち適切なものを選んで答えを返すのだ。そこに感情は存在しない。リッツが今までに見たどんな機械もこんなに感情豊かに言葉を発することはなかった。
「だってこんなの、まるで人間じゃないか」
「人間だよ。ロボットの中には人の心を持つものもいるんだ。もうほとんど残っていないけど」
 リッツはぽかんと口を開けヴァンの顔を見上げる。画面からの光に照らされた彼女の顔はいたって真面目で、冗談を言っているようには見えなかった。
『なにをごちゃごちゃ言ってるのよ。人工知能なんて珍しくもなんともないでしょうに……あ』
 不機嫌な少女ロボットはふと声を上げると少しの間沈黙した。入れ替わるように青一色の画面に白い文字が浮かび出す。最初に表示された「WELCOME」の文字とは違って辞書のような細かい文字がずらりと並び、読む間もなく次々と流れて画面外へ消えていく。何と書かれているのかは全く読めなかった。字が小さく、眩しくて読みづらいというだけでなく、そもそも使われている文字からして違うようだ。
『今はM暦1037年であってる?』
「そうです」
『なるほどね。四百年も経ったのなら、あたしの常識は当てにならないか』
 よんひゃくねん。リッツは声に出さずに口だけを動かして繰り返した。いったい「いつ」から四百年経ったというのだろう。まさかこの鯨がこの墓場に打ち捨てられ、電源が落とされたのが四百年前だとでも言うのだろうか。旧時代のロボットならば千年前から存在するものも珍しくないのだから、ありえない話ではない。そう考えながらも、リッツにはどうしてもこの幼い声と何百年もの時を経て存在する遺物とが結びつかなかった。
『ふふ。大口開けちゃって、そんなにあたしが珍しい?』
 少女ロボットはくすくすと笑い声を上げる。自分が笑われていることに一拍遅れて気付いたリッツはすぐに口を閉じたが、浮かんできた疑問を抑えられずまたすぐに口を開いた。
「見えてるの? どこかでぼくたちを見てるの? きみは本当にロボットなの?」
『見えてるわよ。この鯨の中ならどこにいたって見えるわ。あたしはこの鯨のブレーンだから』
「ブレーンってなに」
『脳みそのことよ。あたしはあんたたち人間と同じようにものを考え感情を持ち、手足のように機械を操ってこの鯨を動かす脳みそなの。あんたたちを映しているカメラがあたしの目、あんたたちの声を拾うマイクがあたしの耳なの。海を泳ぐときだって、ひれを動かすのはあたしよ。左右に曲がるのも前に進むのも、すべてあたしが操っているからできることなの。おわかり?』
 リッツは返事をすることができなかった。分かるかと問われてもすぐに飲み込めるような話ではない。すごいものを見ているのだと感嘆する気持ちと、騙されているのではないかと疑う気持ちの両方がリッツの中でせめぎ合っている。彼がなんとも複雑な顔をして黙り込んでしまうと、ロボットはヴァンの方へ水を向けた。
『おチビちゃんと違って、お姉ちゃんの方は驚いてないみたいね。あたしを起こしたのはお姉ちゃんの方?』
「実際に電源を入れたのはこいつですが、あなたと話したかったのは僕です。どうしても、教えてほしいことがあります」
 答えるヴァンの背筋が伸びる。目線はまっすぐに眩しい画面を見つめた。緊張しているのか、表情が固い。ロボットはふうん、と品定めするようにゆっくりと返事をした。
『まあ、せっかく久し振りのお客さまだし、話ぐらいは聞いてあげましょうか。あんたたち、名前は』
「ヴァンです。こっちはリッツ」
『そう。あたしは製造番号1866番。愛称は真ん中の数字をとって『ハロ』よ。よろしくね、ヴァン、リッツ』
 当初の不機嫌さはどこへやら、「ハロ」は弾むような声で名乗る。もしも人型の体があったならばきっと胸を張っていただろうと思えるような誇らしげな口調であった。


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