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■ 第4話 鯨の墓場


 ヴァンの指示を受けてリッツが足を踏み入れたのは狭くて暗い水路の一つだった。筒状をした水路には、一人分の幅しかない通路が壁にへばりつくように造られている。灯りは最低限しか設置されておらず、手すりもつけられていない。足を踏み外せば下を流れている水の中へ真っ逆さまだろう。水面が通路からどれだけ離れた位置にあるのかもこう暗い中ではよく分からない。正直なところ、リッツは水路に一歩足を踏み入れた瞬間ヴァンの言いなりになったことを後悔したが、彼女に臆病者だと思われるのは癪だったので平常心を装っていた。壁につけた手を離さないよう注意しながら、等間隔についた灯りを目印にして歩いていく。すぐ後ろにヴァンの足音がついてきていた。
 二人が進んでいくにつれて、少しずつ水路の水位が上がってきているようだ。リッツはこの水路へ入るのは初めてだが、この先がどこへ繋がっているのかは知っている。水門だ。鯨が外海から港へ入るときはいくつかの水門をくぐることになるのだが、ある時にだけ使われる脇道が存在する。この水路の先がまさにその脇道というわけだ。
 こんな場所に一体何の用があるというのだろう。リッツは黙々と足を進めながら考えを巡らせていた。ヴァンは友達を探していると言ったが、こんな時間にこんな場所で人探しをしようとする人などいない。そもそも滅多に人が訪れることのない場所なのだ。ここは、鯨の墓場だ。
 リッツはふと足を止めた。俯いて歩いていた彼のすぐ前に黒く大きな塊が立ちふさがったのだ。
 黒く丸みを帯びたフォルムと尾の形を模したプロペラがささやかな灯りに照らされ暗闇の中にぼんやり浮かび上がる。全長20メートルほどの小型の鯨だ。胸びれのハッチが根本からぽっきりと折れており、空っぽの船内が外から丸見えになっている。頭の方が通路に乗り上げる形になっていて、斜めになった体の半分ほどが水に浸かっていた。ずいぶん昔からここに打ち捨てられているようで、水に浸かった部分は変色してしまっている。
「着いたけど」
「そうみたいだね」
 振り返ったリッツに満足げに頷いて見せ、ヴァンは朽ちた鯨に近付いていった。通路の端でしばし足を止めたかと思うと、立ち幅跳びの要領でひょいっと身軽に鯨の中へ飛び移る。少女一人とはいえ久し振りに質量のあるものを受け止めた鯨はぎしぎしと耳障りな音を立てて揺れた。まるで生きた鯨が体内への侵入者を拒んでいるかのようだ。いつの間にか通路のすぐ下まできていた水面が波打ちリッツの靴を濡らす。自分の足元と鯨との距離を目測し、リッツはヴァンの後を追うのを諦めた。もしかしたら届くかもしれないが、届かなかったら水路にドボンだ。通路に引っかかっている不安定な状態だから、届いたとしてもバランスを崩して沈んでしまうかもしれない。ヴァンは泳げるのだろうか、とリッツは密かに心配した。
 揺れた鯨が位置をずらしたおかげで、通せんぼされていた通路の先が見える。筒状の狭くて暗い水路が続く中、先頭のそれと同じような小型の鯨がずらりと列をなしていた。どれもこの墓場へ打ち捨てられてかなりの時が経っている。ひれが折れていたり穴が空いていたりと状態は様々であるが、一目見て使い物にならないと分かるものばかりだ。現代の技術では一度壊れた鯨を修理することはできない。島から島へ渡る唯一の交通手段である鯨は、はるか昔に海のずっとずっと上で暮らしていた頃の人類によって造られたのだという。製造法も原理も技術も失われて久しい。前時代の遺産はもはや使い捨てることしかできないのだ。
「なにぼんやりしてるんだよ」
「べつに」
 ハッチから顔をのぞかせたヴァンに声をかけられ、リッツは首を振った。通路へ戻ろうとするヴァンへ手を差し伸べてやる。安定した通路からは軽々と飛べた距離も、ぐらぐら揺れる鯨の上からは届かないかもしれない。自分のものよりも少し大きいが、フランクのものよりずっと細くて華奢な手を握り引っ張る。タイミングを合わせて飛んだヴァンは無事に通路の上へ着地した。
「どうも」
 短く礼を言って鯨の横をすり抜け、奥の方へ進んでいく。リッツが後について鯨の横を通ったとき、もうヴァンは次の鯨の中へ入っていた。この鯨はいったいどんな壊れ方をしたのか、お腹の辺りで真っ二つに割れていて侵入は容易だった。
「こりゃ駄目だな」
 操縦室のある頭の方を覗き込んだヴァンが切り捨てる。通路にいるリッツからも丸見えになっている操縦室は水浸しで、壁は剥がれ家具は倒れ惨憺たるありさまだ。一目見ただけで興味を失い次の鯨の方へ向かうヴァンを追いかけリッツは尋ねた。
「いったい何を探してるの」
「友達だって言っただろ」
「ぼくが子供だからってバカにしてるのかよ。こんな所に人がいるわけない」
「バカにしてるつもりはないよ。それに、僕は人を探しているなんて一言も言ってない」
「は」
 リッツは面食らい、ヴァンとの会話を思い出す。確かに彼女は「探したい物がある」と言っていた。
「探し物って鯨のこと? ここの鯨はどれも壊れているから、見て回ったって意味ないよ」
「リッツは鯨の操縦室に入ったことはあるのか」
「ない」
 リッツが即答すると、ヴァンは怪訝そうに彼を振り返った。
「一度も?」
「ない」
「港で働いているのに?」
「鯨は嫌いだ」
「ふうん」
 頑なに首を振るリッツにそれ以上追及しようとはせず、ヴァンは次の鯨の中へ潜り込んでいく。リッツはなんだか見放されたような気分になり、少し迷った後にハッチへ足をかけ鯨の中を覗き込んだ。灯りの点かない船内は真っ暗だ。入口すぐに数人分の座席が並んでおり、右手の尾部には小さな貨物室へ続く扉、左手の頭部には操縦室への扉が見える。操縦室の扉は開け放たれておりがたがたと音が聞こえてきていた。リッツはいつの間にか口の中に溜まっていた唾を飲み込んで、鯨の中へ足を踏み入れようとする。
「あれ、来たの」
 どうやらこの鯨にもヴァンの求めるものはなかったようで、ちょうど同じタイミングで操縦室を出てきた彼女と向かい合う形になった。自分よりも身長の高い彼女と相対し、リッツの視界は自然と上を向く。並ぶ座席の上、天井にほど近い壁面には荷物棚として網が張られていた。心臓が大きく音を立てて跳ねる。誤魔化せないほどに頬が引き攣ったのが自分で分かった。
「リッツ?」
 声をかけられて反射的に後ずさる。暗さのせいでお互いに顔なんてまともに見えていないのだが、そんなこともリッツには思いつかなかった。雲を踏むようなおぼつかない足取りで後退する。ハッチを踏んだ足がずるりと滑った。視界が回る。突然のことに驚いて固まった体は悲鳴さえ上げずに傾いていった。
「おい!」
 腕を取られ、強い力で引かれる。硬直したままの体は引かれるままにハッチの上に戻り、ヴァンに両肩をがっしりと掴まれた状態で安定した。
「何やってるんだ、危ないだろ。……リッツ?」
 顔を覗き込む距離にまで近付いてようやく彼の異変に気付いたらしいヴァンが声のトーンを変える。急に気遣わしげな大人の顔になった、と思った時、固まっていたはずのリッツの舌が滑らかに動いた。
「ごめんなさい、ありがとう。暗くて、ちょっと、びっくりしたんだ」
 だから、だいじょうぶ。そう呟いたリッツを見下ろし、ヴァンはかすかに眉をしかめる。
「ここにもなかったの、探し物」
 何事もなかったかのようにリッツが尋ねた。引き攣っていた頬もいつの間にか元に戻り、素直ないい子の顔でヴァンを見上げる。目を合わせたヴァンは探るように少年の瞳を見つめ返していたが、やがて諦めて頷くことで先に視線を逸らす。ささやかな根くらべはリッツの方に軍配が上がった。
「ああ。次を、探すよ」
 リッツの肩から離れたヴァンの手が、今度はリッツの左手を握る。さっきまでとは別人のように優しい手だった。手を引かれてハッチを渡りながら、本当に女の子なんだな、とリッツは少し失礼なことをぼんやりと考えた。ヴァンは通路へ戻っても手を離さず、当たり前のように次の鯨の中へリッツを引っ張っていく。ハッチに足をかけたところでようやくリッツは抗議の声を上げた。
「ねえ。どうしてぼくまで中に入らなきゃいけないの」
「見てないところでうろちょろされて溺れ死んだりされたら寝覚めが悪いんだよ。リッツ、鯨は誰が動かしているのか知ってるか」
「大昔のロボット」
「なんだ、それは知ってるのか」
 今度の鯨は先程のものよりも少し大きい。同じく暗い空間に十数人分の座席が並んでいるのを眺めながら、リッツは目線を上げないように自分のつま先を見つめた。床板がぎしぎしと音を立てる。船上特有の、宙に浮いたような不安定な揺れを感じる。リッツの両手にはじわりと汗がにじんできた。ヴァンは気付いているだろうか、と案じながらもすがるように彼女の手を握りしめてしまう。彼女は何も言わなかった。
 操縦室のドアをくぐると、通路の灯りはもうわずかも届かない。真っ暗闇の中でヴァンが円筒状のライトを取り出し二人の足元を照らした。手のひらにすっぽり収まる小さなそれもまた、失われた技術で作られた旧時代の遺物の一つだろう。
 操縦室の中は、客室とは違う鉄臭いにおいがした。それほど広い部屋ではない。客室のものより一回り大きな座席が一つだけ部屋の中心に置かれていて、手元には数本のレバー、足元にはペダルが設置されている。この座席が鯨の運転席ということだろう。座席の正面には大きな黒い板が掲げられている。黒い板は何らかの機械でできているようで、座席と向かい合う面はただの真っ黒な板だが、横や後ろに回ってみると半透明な入れ物の中に細かい機械やコードがびっしりと詰まっていた。
「ここが鯨の頭の中だ」
 ヴァンは運転席の上に覆いかぶさるように身を乗り出し、あちこちのボタンやレバーをいじくりだした。押したり引いたりする合間に正面にある黒い板を軽くノックしている。
「非常用の電源ならまだ入るかもしれないんだけど。リッツ、それらしいスイッチとかないか?」
「分かんないよ、そんなの」
 どこを触っても機械が動き出しそうな気配はない。リッツは仕方なく電源探しに付き合って運転席の周りをぐるりと一周したが、糸のように寄り集まったコードが張り巡らされているばかりだ。ヴァンは運転席に腰かけて「駄目かなあ」とぼやいた。
「外壁が壊れて泳げなくなっても、中の機械が生き残っているやつが一つぐらいあると思うんだ。なんてったって失われた超技術でできたロボットだからな」
「ロボットが動いても、海を泳げないなら鯨としては役に立たないんじゃないの」
「まあ、鯨としては、ね」
 ヴァンは頷き立ち上がった。この鯨にも見切りをつけたらしい。
「広くて暗い海の中で、人類が生きていけるのは島の中だけだ。島の中はきれいな空気で満たされていて海水が入ってくることはない。朝になれば人工太陽が昇り夜には沈む。多少の寒暖の差はあっても、凍え死ぬほど寒くはないし蒸し焼きになることもない。それらは全て、遠い昔に作られた機械が管理しているんだ。今の人類には想像もつかない技術がそこには使われている。そして、それは鯨も同じだ」
「同じ?」
「島のあらゆるロボットを束ねる、マザーコンピュータというロボットが島ごとに必ず一つずつ存在する。マザーコンピュータは全てのロボットと繋がっていて、島中の情報が集まってくる。この鯨もロボットで動かすものだから、起動さえできればマザーコンピュータに繋がるはずだ。そうすればこの鯨を通して、必要な情報を手に入れることができる」
 二人は操縦室を出て出口に向かう。リッツは前を歩くヴァンの背を眺めつつ首をかしげた。実際に見たわけではないが、鯨はロボットの力で動いているということはリッツも知っていた。だが、情報を集めることができるというのは腑に落ちない。島での暮らしはヴァンの言う通りたくさんのロボットに支えられている。蛇口から飲み水が出るのも、湯沸かし器で水を温められるのも、ロボットのおかげだ。でも蛇口や湯沸かし器は水を出したり温めたりするだけのものであって、それ以上難しいことはできない。鯨は海を泳いで人や物を運ぶためのものだ。そこからどうやって、一体何を、ヴァンは手に入れようというのだろう。
 次の鯨もすぐに見えてきた。通路に乗り上げた小型の鯨は頭が歪にへしゃげている。なにか硬いものと正面衝突したのか、頭部は無数の擦り傷で白っぽく変色していた。


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