第四夜 しょっぱいケーキと少女の魔法 --4



「千恵ちゃん!? どうしたの、傘忘れたの?」
 ドアを開けた空雄は、びしょ濡れになって立ち尽くす千恵を見て目をまん丸くした。髪からは水がしたたり落ち、水を含んで色の変わった制服はぴったりと彼女の体に貼り付いている。セーターなどはしぼったら水がばたばたと落ちそうなほどだ。さらに、靴下は泥がはねてこびりついてしまっている。
「とりあえず、中に入って……あれ?」
 彼女の左手が濡れた折りたたみ傘を持っていることに気付き、空雄が間抜けな声を出す。千恵は彼の疑問に答えるように、体の後ろに隠すようにしてもっていたケーキの箱を差し出した。白い箱にはほんの少ししか雨粒がかかっていない。空雄はそれを受け取って千恵の顔と見比べた。
「え、もしかしてこれのために?」
「……そういうわけじゃ、ないけど」
「いやいやいや、ちゃんと自分に傘ささなきゃダメだよ。風邪ひくじゃんか」
 空雄に手を引かれて家の中に入る。足が濡れているので、玄関の中で靴と靴下を脱いでしまう。すかさず空雄がタオルを差し出してきた。千恵は小さな声でありがとう、と言ってそれを受け取り足を拭く。だが、濡れた制服からぽたぽたと水が垂れてくるので、タオル一枚ではどうしようもない。空雄が今度は灰色のジャージを持ってきた。
「ほら、冷えちゃうから、それを脱いでシャワー浴びて。替えの服は男物しかないけど、たぶんこれなら大きくてもなんとか着れると思う」
「え、あ……」
「えーっと、使ってないバスタオルが確かどっかにあったと思うんだけど」
 空雄はジャージを手渡すと、また部屋の方に戻ってクローゼットや衣装ケースの中を探り始めた。千恵はケーキを渡したらすぐに帰ろうと思っていたので、持たされたジャージと空雄を代わりばんこに見ながらもごもごと口ごもる。人様の家の風呂を使わせてもらうのはなんだが悪い気がするが、このまま帰ると言えば彼は心配するのだろう。
 部屋の中は相変わらず家具が少なく、狭い家なのにがらんとして見える。突き当たりの窓の下にはやはり画用紙が散乱していて、伊織がその真ん中に座っていた。無表情で空雄の動作を目で追っている、と思うと、千恵の視線に気付いたのか顔ごと彼女の方を向いた。二人はしばし無言で見つめ合う。能面のような伊織の顔からは彼女が何を考えているのか推し量ることができないが、千恵に向けられる透き通った視線からは恐怖も警戒も感じられなかった。空雄が一緒にいるからだろうか。
「あったあった」
 衣装ケースの奥の方からバスタオルを引っ張りだし、空雄は知らずに千恵と伊織の視線を断ち切って二人の間に割り込んだ。千恵が持っているジャージの上にバスタオルを重ねて、彼は浴室のドアを開け電気を点ける。
「はい、ここがお風呂ね。脱衣所はないので着替えは中で」
 千恵はおとなしく頷いて、浴室に入った。
 戸ががちゃりと音を立てて閉まるのを見てから、空雄は飯台の方へ戻っていく。伊織は何事もなかったように色鉛筆を持って画用紙に向かっていた。今日は絵を描いていると言うより色を塗りたくっているという方が正しいかも知れない。花や空、人間などは描かれておらず、ただ画用紙いっぱいに水色、青、灰色、黒などの色を乗せていた。空雄が飯台に肘をついて彼女の絵を眺めていると、やがて彼女は灰色の色鉛筆を置き、新しい画用紙を紙の山の中から取り出す。そして今度は黄緑の色鉛筆を手に取った。
「それは、千恵ちゃんの色?」
 空雄の声を聞いた瞬間、画用紙に向かう伊織の手がぴたりと止まる。色鉛筆をかまえて宙に停止した手を見て、空雄はほんの一瞬だけ驚きを顔に出した。だがそれはすぐに笑顔にまぎれて分からなくなる。伊織もまた、それまで通り無表情で色鉛筆を動かした。

 シャワーを浴びる間はずっと雨音が響くばかりで、部屋の方からの物音や話し声は全く聞こえなかった。そのため、浴室から出て徹の姿を見た千恵は驚いて立ちすくんでしまう。帰ってきたことに気付かなかったのだ。飯台の向こう側には伊織が座ってケーキを食べていて、その向かいの玄関側には徹が座っている。千恵が浴室から出てきた時の音に反応して振り向いたが、彼女を一目見ると何のコメントもなくまた前を向いた。
「千恵ちゃんも、ケーキ食べる?」
「いい」
 玄関を入ってすぐ右側の台所に空雄が立っていて、冷蔵庫を開けてケーキを取り出そうとしていた。千恵は自分でも驚くほど強い口調でそれを断る。思わずぎくりとするが誰も感情を害した様子はなかった。空雄がそっか、と呟くように言ってケーキを戻す。棚から湯呑みを二つ取り出し、鼻歌を歌いながらお茶を淹れる。
「座っとけ」
 徹がちらりと振り向いてそう言うので、千恵はとりあえず徹と伊織のあいだ、飯台の右の方に座ることにした。以前に見たときと同じように、伊織はゆっくりケーキを味わっている。削られて倒れてしまったケーキにフォークがぷす、と刺さり、黄色いスポンジと白いクリームの塊が小さな口の中へ入っていく。徹のケーキの方はちょうど半分ぐらいがなくなっていた。彼はそれ以上口を付けようとせずに湯気がほこほこと立っている湯呑みを持って、見るともなしに伊織を見ている。
「はい、どうぞ」
 空雄は千恵に湯呑みを一つ渡すと、彼女の向かい側に座った。彼はもうケーキを食べてしまったのか、皿もフォークも置いていない。彼女はお茶を一口飲んだ。熱い液体が食道を焼き、ゆっくりと胃に滑り落ちていく。彼女は腹の底から深くため息をついた。寒さに強張っていた体から力が抜ける。湯呑みを飯台の上にそっと置いて、額を台の端に押しつけるように背中を丸めた。
「風呂入るぞ」
「どーぞ」
 徹が立ち上がる音に思わずびくりと震え、顔を上げると徹と目が合う。
「ごちそうさん」
「え……はい」
「伊織、さっさと食っとけよ。俺の残りもやるから」
 彼はそれだけ言うと、衣装ケースの上に積み上げられていた服やタオル類を抱えて浴室の方へ行った。千恵は彼に会釈して伊織の方を見る。少女はぱっと顔を上げ、笑いこそしなかったが表情が明るくなった。この小さな女の子の体のうちに奥深く閉じこめられている光のようなものがほんの少しこぼれ出たようだった。
「本当に好きだね。おいしい?」
「ん」
 伊織がうなるような声で返事をした、ような気がした。もぐもぐと口を動かしながらまたフォークをケーキに突き刺し、小さな塊を持ち上げて空雄に向ける。
「ん」
 今度ははっきりと声を出した。空雄が大きく口を開けてフォークに食いつく。
「あ、おいしい。ありがと、伊織ちゃん」
 幸せそうに笑う空雄の顔をじっと見上げて、伊織はケーキに向き直った。そして次の一口を取ろうとしたが、ふと思い当たったように千恵の方を見る。嫌な予感がした彼女は慌てて胸の前で両手を振った。
「あ、わ、私は……」
 伊織はしばらく千恵をじっと見ていたが、何も言わず表情も変えずにまたケーキを口に運んだ。


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