第四夜 しょっぱいケーキと少女の魔法 --3



 子供のぐずる声が聞こえてきて、千恵はふっと顔を上げた。自動ドアから母親らしき女性と、手を引かれてべそをかく女の子が出てきたところだった。二人の後ろで「すざき医院」の「す」の字が横にすべって自動ドアが閉まる。千恵は二人の顔をこれ以上近くで見ないようにうつむいて足早に家の裏に回った。女の子はまだだいぶ幼く、言葉にならない声でぐずぐず泣いている。母親はすこし苦笑ぎみで、「よくがんばったね」とか、「おうちに帰ったらおやつを食べようね」とか言って宥めようとしているのが聞こえた。千恵は耳を塞ぎたくなり、裏にある家族用の玄関のドアまで小走りで向かう。
 カバンのポケットから赤いリボンがついた鍵を取り出し、ドアノブの鍵穴に突き刺す。右に回せばガチャリと音がする。一瞬なにか違和感を感じたが、気にせず開けようとドアノブに手をかけた。だが、開かない。ドアノブがうまく回らない。鍵がかかっているのだ。千恵はドアノブから手を離し再び鍵を刺した。今度はカタンと音がして、ドアノブは回りドアが開いた。開いたドアを見ながら、違和感を感じたのは鍵をかけたときの音が聞こえたからか、と彼女は思う。しかしなぜ鍵がかかっていなかったのだろうか。今朝彼女がかけ忘れていったのか、それとも誰かが帰ってきているのか。
 答えはすぐに見つかった。玄関には久しぶりに見る男物の革靴と、安っぽく光るハイヒールが並んでいたのだ。千恵は固まった。以前に何度も見たことのあるこの革靴は明らかに彼女の父親のものである。だがこのハイヒールは見たことのないものだ。それは、つまりどういうことを意味しているのか。母親が新しい靴を買って帰ってきた。お客様がきた。この家に?
 彼女は後ろ手にドアを閉めて靴を脱いだ。カバンは玄関に置き去りにし、忍び足で家の中の気配を探る。一階のリビングとキッチンは静まりかえっていた。トイレとお風呂にももちろん人はいない。病院の方へ直接つながっているドアからは細く光が漏れていた。向こう側で看護士さんたちの談笑する声が聞こえる。腕時計を見ると今の時刻はちょうど正午ごろだった。病院もお昼の休憩どきなのだろう。さっき帰っていった親子は午前の最後のお客様だったのか。千恵はそうっとドアに耳をあてる。
「もう、先生ったらー」
 はっきり聞き取れるわけではないが、ある程度向こうでの会話がわかるようになった。ただの雑談らしいが、看護士たちの口調からすると「先生」と呼ばれる父親は病院にいるらしい。千恵はきびすを返した。まっすぐに階段に向かい二階に上ろうとする。
「千恵、待ちなさい」
 制止の声がかかったのは階段を真ん中ぐらいまで上ったときだった。千恵は二階に見える両親の寝室のドアをちらりと見てから、階段の手すりにもたれかかり声の主を見下ろした。彼女の父親は顔つき自体は怖くない。なのに表情やまとう雰囲気によっていつも彼女や弟を威圧していた。話しかけてもそっけなくあまり子供の方を向かない。そもそも自分の子供に興味がない。それでいて病院では厳しくても優しい先生で通っているのだから不思議なものだ。要するに外面がいいだけだと彼女は思っている。
「……なに」
「台所にいただいたケーキがあるからそれを食べなさい」
「……」
「下りてきて、食べなさい。だいたいお前、どうしてこんなに早いんだ。まだ学校は終わっていないだろう」
 表面は厳格な父親らしく取り繕っているように見えるが、内心うろたえているのが透けて見えている。千恵は口の端に笑みが浮かぶのを感じ、ごまかそうと口を開いた。
「今日からテスト週間なの。じゃあ、ケーキもらう」
 とんとんとん、とリズムよく階段を駆けおりてリビングキッチンの扉を開ける。父親は怖い顔で彼女の動作を見張っていた。視線を断ち切りたくなり、扉を勢いよく閉める。電気のスイッチを入れて部屋を明るくしてから、千恵は扉の前でしゃがみこんではりつくように耳をあてた。玄関の方はしばらく無音だったが、やがてかすかにギッ……ギッ……という階段のきしむ音が聞こえた。遠くの方でドアが閉じられる音がして、それからは特に何の物音も聞こえなくなる。
 千恵は立ち上がり、うっすらとほこりっぽくなったキッチンの方をまぶしそうに見て、部屋の電気をぱちりと消した。カーテンが全て閉まったままなので、部屋は薄暗くなりカーテンの周りから外の明かりがわずかに差してくる。ダイニングテーブルの上にケーキの白い箱があり、開けてみると中にはシンプルな装飾のケーキが入っている。全体を白いクリームが覆っていて、右上の端に金箔が散らしてあった。大人っぽい小ぶりのケーキだ。
 箱のふたを閉めて、傾かないよう気を付けながら持ち上げると、箱の下にくっついていた何かがひらりと宙を舞って床に落ちた。小さな紙片のようだ。千恵はケーキの箱を冷蔵庫の中に収めてそれを拾い上げる。紙片ではなく、メッセージカードを入れるサイズの封筒だった。封筒は白色無地で文字は何も書かれていないが、さくらんぼのシールで申し訳程度に封がされている。一度はがされたようで、千恵がちょっと指を入れただけでシールはあっさりはがれてしまった。中に折り畳まれて入っていた小さなメモをひらく。
「お仕事がんばってね  ユリ」
 オレンジ色のペンで書かれたメッセージに加えて、ハートマークが二つ書かれていた。コチ、コチ、と時計の針の動く音が響く。千恵はメモから目線をそらさないで、この部屋はこんなに近いところに時計を置いていただろうかと考えた。キッチンは騒がしい場所だから、時計の音なんて何年も聞いた記憶がない。ここでいつも朝ごはんを食べて、学校へ行って、帰ってきておやつを食べて、宿題しろって怒られて、弟と喧嘩をしながら晩ごはんを食べてきたのに。千恵はゆっくりと目線を上げた。さっきまでは日が差していたようだが、太陽が雲に隠れてしまったらしくカーテンの向こうから光が入ってこない。部屋は一段と暗くなった。
 電話の横のペン立てが視界に入ると、千恵は油性の太いサインペンを手に取った。そしてダイニングテーブルに戻り、「ユリ」の文字を塗りつぶす。一部だけが不自然に真っ黒になったメモをもう一度じっと見て、彼女はそれをゴミ箱に放った。
 玄関のドアを開けると、雨が降り出していた。彼女は油性ペンを持って、傘も差さずに外に出る。郵便受けの前で中腰になって、そこに書かれたたどたどしい文字を指でなぞった。
「すざき……としはる、きみこ、ちえ、りょう」
 冷たい雨が背中を叩く。油性ペンのキャップが千恵の手を離れて濡れたアスファルトの上に落ちた。


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