09 アリスは証言する --3



「はっきり覚えとるのは、最初の夜じゃ。わしはあの家でいつものように人形を作っておった。ルノが手伝ってくれた」
 マスターは伏し目がちになってぽつりぽつりと話し始めた。ルノさんもキャロルさんも、一言も聞き逃すまいと真剣に耳を傾けている。マスターは一旦言葉を切って、苦しそうな表情になり震える声で続けた。
「何も……いつもと変わったことはなかったんじゃ。それなのに、突然気が遠くなって、また気がついたときには……ルノ、お前の胸に、わしはナイフを突き立てておった」
「いっ」
 つい声を漏らしてしまった私は慌てて口を手で押さえる。キャロルさんが私の手を一瞬ものすごく強く握ったのだ。彼女の顔を見ると、すっかり色を失って呆然とマスターを見つめていたが、だんだんその瞳に強烈な光が浮かんでくる。これは、憎悪だ。
「それで」
 当の本人の反応はほとんどなかった。簡潔に先を促すルノさんを上目遣いでちょっとだけ見上げて、マスターはまた目を伏せる。
「それだけじゃ。とんでもないことになったと思ったら、またすぐ何も分からなくなった。それから、気がつくと全く知らん場所にいたり、何日も何ヶ月も時が過ぎていたりした。わしが気を失っているはずの間にも、わしは歩いたり、話したり、食べたり寝たりしているらしいことも少しずつ分かってきたんじゃ」
「マリオネットのことはどうなんですの? わたしたちが知りたいのは、人形にされた人々を元に戻す方法です!」
 キャロルさんが口を挟んだ。マスターは彼女の怒りから逃れようとするかのように、小さな体をさらに縮めて呟くようにごにょごにょと弁解する。
「方法があるなら、わしも知りたかった。荷物の中に次々と増えていくマリオネットが、じつは人間らしいと知ったとき、どれだけ身の凍る思いがしたか」
「あなたに、そんなことを言う権利はありませんわ!」
 憤った様子のキャロルさんがマスターの方に一歩踏み出す。私は彼女がマスターに殴りかかるのではないかと思って、ぱっとその手を取りしがみついて離れまいとした。彼女は苛立ちをあらわにして私を叱りつけるような声を出す。
「シェナ!」
「落ち着いてください、これでは埒があきません。お気持ちは分かりますが」
 ルノさんがため息をついた。その途端にキャロルさんが驚くほど大人しくなって、私を振りほどこうとしていた腕から力を抜いた。
「でも。やっと捕まえることができましたのに、これでは何も……!」
 彼女は声を詰まらせる。綺麗な顔をくしゃりと歪めて、子供のようにぽろぽろと涙をこぼした。周囲の者が皆ぎょっとする中、彼女は床に座り込んで嗚咽を漏らす。門番さんたちもルノさんも動かなかった。門番さんはマスターを見張るためにいるんだろうから、たぶん彼が何か怪しいことをしないと動かないんだろうけど。私は床に膝をついて、キャロルさんの背中をさする。まるで子供をあやしているみたいだ。
「キャロルさん、泣かないでください。興奮しすぎですよ。大丈夫です、きっとなんとかなります」
 彼女は返事の代わりにぐすん、と鼻をすすった。困った私は思わずルノさんを見上げる。ルノさんも少し困った顔をしていたが、ちらりとマスターを見て、近くに立っていた門番さんの一人に頼みます、とささやき彼女の前に膝をついた。立てますかとキャロルさんに訪ねる声は穏やかで、視線もやわらかい。部屋の中の異常な雰囲気に圧倒されていた私は、彼のその態度にとてもほっとした。
 三人で廊下に出ると、ちょうどそこをメイドさんたちが通りかかった。ルノさんはキャロルさんを彼女たちに預け、お部屋まで連れていってあげてくださいと私がお願いする。彼女たちは何も聞かずにうなずいて、まだ泣き続けているキャロルさんの手を取った。ただ黙って手を引かれるままに歩いていく彼女の姿は痛々しい。もともとあまり心の強い人ではなさそうだけれど、一連のできごとですっかり参ってしまったのだろう。きっと長い間がんばっていたのだ。マスターを捕まえようとして。マリオネットにされてさらわれた人たちを助けようとして。そう思って彼女を見送っていると、隣でルノさんがぽつりと呟いた。
「十二年も経ったというのに、泣き虫なのは変わらないな」
「え?」
「お嬢様は子供の頃から泣き虫だった。すぐむきになって、感情的で、何でも一生懸命やりすぎる子供だ」
「そうだったんですか」
「ああ、今と変わらない。外見は大きく変わったがな。人間に戻ってから初めて会ったときは驚いた。面影はあったからすぐに分かったが……結局、どれだけ月日を重ねても、人間の本質は変わらないものだな」
 ふう、と軽く息をついて彼は部屋のドアに向き直った。だがそれを開ける前に、私が立ち去ろうとしないのに気付きこちらを振り返る。
「師匠が君を覚えているのは分かったから、君はもういい。戻ってくれないか」
「えっ、でもまだマスターにいろいろ聞くんですよね? 私も聞きたいことが」
「何か分かったことがあれば後で私から伝える」
 ルノさんの声がまた冷たくなってきていた。それでも私はがんばって喰い下がる。彼とマスターを二人で部屋に入れるのはなんだか恐ろしいことのような気がしたのだ。
「マスターも、ずっと責め立てられてたらつらくて、思い出せるものも思い出せないんじゃないでしょうか。もうちょっと後で続きをやってもいいと思いますけど……」
「シェナ」
 びくりと体が震えた。容赦ない本気の声。まるで蛇に睨まれた蛙みたいに足がすくむ。
「その呼び方は、やめなさい」
「……ご……ごめんなさい」
 しばらく何も言えずにいた私は、少しだけ震えながら軽く頭を下げた。ルノさんに聞こえていたのかどうかは分からない。頭を下げたのと同時に部屋のドアがバタンと大きな音を立てて閉まったからだ。もうそこに誰もいないのはもちろん分かっていたが、私は顔を上げなかった。ルノさんを怒らせた。私がいつまでもマスターマスターと呼び続けていたから、ううんそれともマスターをかばうようなことを言ったから? どちらも理由なんだろうけど。でも、マスターが本当に悪い人にはどうしても見えない。ルノさんを撃ったときのマスターも、私を狙ったマスターも、今のマスターとはまるで別人みたいに見える。そんなはずはないのだけれど。マリオネットのアリスだった私に優しくしてくれたマスターも、怖いマスターも、今の怯えて途方にくれたマスターも、全部同じ人であるはずなのに。


『……』
 ふと、頭を下げたままの私の耳に、かすかな音が届いた。それは笑い声のようだけれど、遠くて何と言っているのか聞き取れない。私は顔を上げて辺りを見回した。廊下には誰の姿もないが、人の足音となにかの物音が聞こえる。ガラガラガラ、と、台車かなにかを引いている音だ。私は音のする方へ歩く。なんとなくこの笑い声は普通でない気がしたのだ。
『っはは、あははは』
 方向はあっているようだ。笑い声は近い。まだ幼い少年のような声だ。どこかで聞いた気がするなあと思いながら廊下を歩いていくと、目の前のドアがいきなり開いた。私はぶつかりそうになって小さく悲鳴をあげる。ドアから出てきたのはメイドさん一人だった。彼女は飛び退った私に気付き、慌てて申し訳ありませんと言いながら頭を下げる。その彼女の向こう、ドアのすぐ内側のところには大きめの台車が一つあった。これはメイドさんがお屋敷の部屋からゴミを集めてまわるためのものだ。
『ははっ、あーおかしい。こんなにあっけないなんてね』
 この声は人間の声ではないと、私はもう気付いていた。何度も聞いたマリオネットの声だ。念のため周りをぐるりと見渡して、それらしい物が近くにないか確かめてから、私は困惑しているらしいメイドさんに尋ねる。
「あの、これちょっと見てもいいですか?」
「え? かまいませんけれど……あの、汚いですから、お探し物でしたらわたしが……」
 メイドさんはますます困り果てた表情になるが、私はそれにかまわず、袖をまくって台車の中に手を突っ込んだ。笑い声はまだ続いている。メイドさんにはやっぱり聞こえていないようだ。紙くずやほこりでいっぱいのゴミの中を手探りで掘っていく。後ろでおろおろするメイドさんがああぁ、と情けない声を上げた。それを聞いて、もし後で誰かに怒られたらごめんなさい、と心の中で謝る。でも手は止めない。もし予想が当たっていたら大変なことになるのだ。
 指先に固い物が触れた。私は改めて袖をまくりなおし、他のゴミを片手で押し退けながらそれを引っ張りあげる。
 ゴミの山から出てきたのは、古びたボロボロのマリオネットだった。




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