09 アリスは証言する --2



 カバンの中のマリオネットはほとんどが不思議の国のアリスの登場人物だ。マスターは劇をするときにはいつも私を操ってアリスの役を担当していたけれど、本当はだいたいどの役でもできる。そういえば、カバンの中で他のマリオネットと少しおしゃべりしたことがあったかもしれない。とは言ってもみんな無口だったしそれほど会話がはずんだとは言えなくて、それほど記憶に残っていない。
 ルノさんの隣にしゃがみこんで、私は彼と一緒にマリオネットを一つずつ取り出してほこりっぽい床に並べていく。ミティーちゃんが後ろに立ってそれを食い入るように見つめていた。最初に出てきたのは私じゃない、また別のアリス。女王様。白ウサギ、これは私をマスターのところに案内したマリオネットだ。さっきのネムリネズミもいる。次に、チェシャ猫。
「ミーア!」
「きゃっ」
 突然ミティーちゃんが叫んで、私の手からマリオネットをひったくった。背後でランさんがはっと息を呑むのが伝わる。彼は立ち上がってこっちに一歩踏み出した、その途端に体がぐらりと傾いで膝をついた。右腕をかばって左腕を床につき倒れるのを防ぐ。しまった、彼は怪我人だった。私はランさんの前に駆け寄ってしゃがみこむ。ミティーちゃんがあっ、と声を漏らした。
「大丈夫ですか」
 肩を支えようとして、右肩は触れない方がよさそうだと気付く。左の肩に手を添えて顔を覗きこんでみると、彼は力なく苦笑した。
「……や、立ちくらみ、だ」
「ええっ。それだけじゃないでしょう、傷はどうなんですか」
「実は……さっきから、痛み止めが切れてて」
「あ、それで」
 ミティーちゃんをかばった時に動かなかったのは、傷に響いて動けなかったのだ。うっかり口に出しそうになったのを飲み込んで私はルノさんを振り返る。
「どうしましょう」
「応援を呼んでくるしかないな。あまり師匠から目を離したくはないのだが、仕方がない」
 師匠、と言いながらルノさんはマスターの方を見た。マスターはまだ気を失ったままだ。強く殴りすぎたのではないだろうか、けっこう年なのにあんなに縛り付けちゃって体は大丈夫なのか、と不安が湧きおこる。だがそれを口に出しては言えなかった。マスターは私にも容赦しなかったし、ルノさんはきっとそのことを怒っている。自分でもおかしいと思っているのだ。どうして私はこんな状況になってまでマスターが心配でたまらないのだろう。
「あの銃は持っていく。他に武器になるようなものは身につけていなかったから、そのカバンを近付けないようにしてくれ。すぐに戻ってくる」
 そう言いつけてルノさんが小さな家から出ていく。バタン、と大きな音を立てて扉が閉まると部屋の中にはランさんの少し荒い呼吸の音だけが響いた。横になりますか、と私が尋ねると彼は首を横に振って、小さな声で立ち尽くしている妹の名前を呼んだ。ミティーちゃんはびくりと震える。その腕にはチェシャ猫のマリオネットがしっかりと抱かれている。
「ミティー、ミーアは……いたのか」
 彼女は黙って頷いたが、下を向いたままのランさんの視界には入っていない。私は彼女に微笑みかけて手招きをした。彼女が少しためらった後おずおずとランさんに近寄ってくる。
「ランさん」
 そっと声をかけると彼も顔を少し上げた。床に座ったミティーちゃんと目が合い、視線はその両腕の中のマリオネットに向く。彼はしばらく息もつかずにチェシャ猫を凝視していた。ミティーちゃんが固い顔でランさんを見つめる。マリオネットのガラス玉の瞳はどこか別のところを向いていた。ふっ、とランさんが吐息で笑う。少し息を吸って、何かを言おうとしたような感じだったけれど言葉はでてこなかった。
「お兄ちゃん」
「……お前は、怪我してないのか」
「……うん」
 兄妹の会話はぎこちなく、不自然な間を置きながら言葉が交わされる。ミティーちゃんはそれを埋めようとするかのようにランさんへと体を寄せた。
「お兄ちゃん」
「そうか。よかった……何だ?」
「……ごめんなさい」
 か細い声は震えている。ミティーちゃんはうつむき、その拍子に涙がぱたぱたと床に落ちた。ランさんがわずかに目を見張る。
「ひどいこと言って、ごめんなさい」
「俺も、な」
 ぱたりぱたりと水滴が床を打ち続ける。ランさんは目線を落として彼女の流した涙を見つめる。
「すぐ帰るって、嘘ついてごめん」
 ミティーちゃんがぎりっと唇をかんだ。握りしめられた両手に力が入って白くなる。
「でももう危ないことはするなよ」
 呟くようなランさんの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ミティーちゃんは握りこぶしをぱっと開いて両腕をランさんの背中に回した。胸に顔を押し当てて泣き崩れる。ランさんは痛みに少し顔をしかめたが、慌てて制止しようとした私をやんわりと遮って彼女の背中に左腕だけをそっと回す。ミティーちゃんのくぐもった泣き声が耳を打った。
「お前まで、いなくなったら……」
 ランさんの声はかすれていて、その後はなんと言ったのか聞き取れなかった。だがミティーちゃんには聞こえたようで、悲鳴のような泣き声はほんの少し大きくなった。
 お屋敷からルノさんたちが戻ってくるまで、彼女は泣き続けていた。





「お嬢様、シェナ様をお連れしました」
 私の前を歩くメイドさんが、キャロルさんの部屋のドアをノックする。少しの間があってドアは細く開いた。強ばった表情のキャロルさんが顔をのぞかせ、私に手招きする。メイドさんは一礼して戻っていった。
 ドアからすべりこむように部屋の中へ入る。窓を締めて少し薄暗くした中で、壁側に数人の男の人たちが並んで立っている。いつも門番をしている人たちだ。部屋の一番奥のベッドの横には、両手を後ろ手に縛られたマスターが床に座っていた。その前にルノさんが立っている。異様なまでに張りつめた空気の中、私はキャロルさんに手を握られてマスターから三歩ほど離れたところに立った。マスターのすぐ前に立っているルノさんがちらりと私を見て、少し身を引く。私とマスターはまっすぐ向かい合う格好になった。
「顔を上げなさい」
 キャロルさんが押し殺した声でそう言うと、マスターは大人しくそれに従った。彼の表情は一変していて、覇気を失い悲痛な面持ちをしている。睨まれたり怖いことを言われたりするのではないかと思っていたのでかなり意外だった。小さく弱いただの老人にしか見えない。
「この子のことも覚えていないというのですか?」
「いや……覚えておるよ。わしが話した覚えがあるのは、ルノとこの子だけじゃ」
「そんなわけはないでしょう!」
 キャロルさんが私の手を強く握った。ルノさんとキャロルさんの気迫が部屋の中に満ちていて、私は口を出せない。マスターも私と同じようにおどおどと二人の顔色をうかがっていた。
「覚えておると言えば覚えておるが、記憶はほとんど全部ぼんやりとしておるんじゃ。わしが何をしたのか、何を言ったのか、なんとなくしか思いだせん」
「そんな言い訳が通用するとでも……」
「お嬢様」
 金切り声を上げようとするキャロルさんをルノさんが遮る。彼は床に膝をついて、目線をマスターに合わせた。
「全て何も分からないとは言わせません。なんとなくでも構わない、話してください」
 ルノさんの口調は丁寧だが、口から吐き出される声は冷え冷えとしている。私の方からルノさんの顔は見えないが、それに対するマスターの目が少し見開かれ揺れたのが分かった。




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