06 孤児院の伯爵夫人 --3



「シェナ?」
 気付くと、院長さんが気遣わしげに私の顔を覗きこんでいた。いけない、考え事に夢中になっていたようだ。私は慌ててすみません、と謝る。
「調子でも悪いのかい」
「いえ、そんなことは……大丈夫です。それより、私たちもう帰らないと」
「ええっ、せっかく来たのに?」
 本当に心配そうな様子の院長さんに首を振って見せそう言うと、案の定ミティーちゃんが抗議の声をあげた。私はそれを無視して続ける。
「私、出てきたときはほとんど何も覚えていない状態でしたから、きっとキャロルさんが心配していると思うんです。それに、かなりたくさんの記憶が一気に戻ったので、ちょっと一旦戻って落ち着きたいなと」
 キャロルさん、と言いながら私はミティーちゃんとしっかり目を合わせた。それで私の言いたいことは彼女に伝わったようで、彼女は「あっ」という顔をしたかと思えば嫌そうに眉間にしわを寄せ口をとがらせる。だがもう反論は口にしなかった。院長さんはぱちぱちと目を瞬かせて私たちを見比べ、首をかしげるとずり落ちてきた赤ちゃんを抱き直した。
「まあ、それならキャロルさまを安心させてあげておくれ。でも、あんたもゆっくり休んだら、またうちに帰っておいでね。見ての通り、あんたがいなくなってからも子供が増えてるからさ、前みたいに手伝ってくれると助かるんだ」
「あっ、はい! もちろんですっ」
 私は院長さんの言葉に即座に頷く。いつまでもキャロルさんのお家にご厄介になるわけにはいかないのだ。仮住まいをしていて、帰る家を持たない状態は心地よいものではない。そこにこうして、帰っておいでと言ってくれる人がいるのなら、願ってもないことだ。
「記憶が戻って、落ち着いたら、また……お願いします」
「ああ、待ってるよ。記憶喪失ってのは不安だろうしねえ。しっかりするんだよ」
 記憶がないのは確かに不安だが、それが理由ではない。私はマスターとの問題をなんとかしなければいけないのだ。どうして彼は人間をマリオネットに変えてしまうのか。いったい何の目的があるのか。私はどうしてマリオネットになったのか。それを知らなくちゃいけない。私の中には、マリオネットだったときの記憶、「アリス」としての記憶がまだ残っているのだ。あの優しい時間は嘘だったのかもしれないと思うと足元が崩れていくような気分になる。私は確かめなくちゃいけないんだ。たとえ人間としての記憶をすっかり取り戻したとしても、そこを否定されたら私は駄目になってしまう。



 私たちは孤児院からキャロルさんのお屋敷へと歩いていた。途中までジャンくんやその他にも何人かの子供たちがついてきてしまったのだが、またすぐに会いにくるよと言い聞かせると大人しく帰って行った。子供たちに手を振る横でミティーちゃんは彼らの方をただぼうっと見つめている。彼らの姿が曲がり角の向こうに消えても、彼女が動こうとしないので私はそっと彼女の手をとった。
「行きましょう、ミティーちゃん」
「あ、うん」
ミティーちゃんはすぐに振り返り頷く。彼女は歩き出しながら甘えるように私の腕に両腕を絡ませてくる。
「ねえシェナちゃん、来てよかった?」
「そうですね、よかったです。ミティーちゃんが案内してくれたおかげですね」
「えへへー」
 ふにゃりと笑うミティーちゃんの表情はやけに子供っぽく見えた。彼女がくっついているせいで少し歩きにくいのだが、母性本能をくすぐられてついそのままにしてしまう。突然どうしたのだろうか。さっきジャンくんと話していたときにミーアくんのことを思い出していたようだし、寂しくなってしまったのかもしれない。ふとミティーちゃんの顔を見下ろすと、彼女の大きな瞳が私を見つめていた。その暗い赤はランさんと同じ色だ。やっぱり彼らは兄妹なのだ。じゃあ、ミーアくんも同じ目をしているのだろうか。
「ねえシェナちゃん」
 ミティーちゃんはさっきと同じように私の名前を呼んだ。だがその声色は固くなっている。私は立ち止まり、黙って彼女の言葉を待つ。
「お兄ちゃんに会わせてくれるよね」
「ランさんに、ですか」
「そう! あたしはちゃんと孤児院まで案内したんだから! シェナちゃんもあたしをお兄ちゃんに会わせてくれなきゃ」
「……分かりました」
 私は観念した。こんなに一生懸命になっているミティーちゃんをごまかし続けるのは心が痛むし、私にはそんなことは無理だ。
「ランさんは、キャロルさんのお屋敷に住んでいました」
「今は?」
「しばらく戻ってきていません。だから、キャロルさんも私も、本当にランさんを見ていないんです」
「何でよ! どこに行ったの!?」
「落ち着いてください、今説明しますから」
 すぐに興奮しだすミティーちゃんの両肩に手を置いて、私はまっすぐに彼女の目を見る。彼女は落ち着かない様子で口を閉じた。
「信じられないかもしれませんけど……ミーアくんは、マリオネットにされてしまったかもしれないんです」
「それは知ってるよ」
 ミティーちゃんの返事は思いがけないものだった。たぶん私はすごく間の抜けた顔をしていたんだろうと思う。事もなげに言い放ち全く当然のことのような顔をしている彼女を見つめ、私は言葉を失った。
「あたしは知ってるよ。だってあたし見たんだもん! ミーアがお人形になって、さらわれるところ。でも誰も信じてくれなかった! シェナはなんで知ってるの、もしかしてお兄ちゃんが」
「えっと、その、そうですね、ランさんとキャロルさんは信じていますよ。それで、ずっとマリオネットのミーアくんを探していたそうです」
「そう、なんだ……」
 ミティーちゃんはマリオネットのことを知っていたのだ。では、キャロルさんやランさんにそのことを話したのは彼女だろうか。
「お兄ちゃんもキャロもあたしの言うこと、信じてくれなかったのに」
 私の内心での疑問に答えるように彼女はそう言った。
「あたしが十歳でミーアが六歳のとき。外に出て二人で遊んでたら、知らないおじいさんが来てマリオネットを動かして見せてくれたの。でも、あたしなんか落ち着かなくて、ミーアを連れて家に戻ろうとしたんだ。でもそのときおじいさんがミーアを呼んで、そしたらあの子、あたしの手を離しておじいさんのとこに走って行っちゃった。それで、振り返ったら――すごく、大きな音がして。おじいさんが緑色の銃を持ってて、それでミーアを……」
 ミティーちゃんの瞳にみるみるうちに涙がたまっていく。私は余計なことは言わずにただうん、と相槌を打った。
「あたし、ミーアが死んじゃうって思ったんだけど、そうじゃなくて消えちゃったの。本当だよ? その代わり、ミーアの立ってたところにネコのマリオネットが落ちてた。おじいさんはそれを拾ってあっという間にいなくなったの」
「猫ですか?」
「そう。でもね、あれはミーアだよ。だって体の色はミーアの髪の色とおんなじだったもん! 本当だよ、あたし嘘つきじゃないから!」
「ええ、信じますよ。私は信じます。だって……私も、マリオネットだったんですから」
 ミティーちゃんが目を見開いた。うそ、と震える唇からかすかな声が漏れる。私は黙って真剣な目で彼女を見つめ返した。嘘じゃない本当だ、と言うとかえって嘘くさくなるような気がしたのだ。彼女は信じられない、といった表情で私の頭からつま先までを順に見て、肩に触れている私の両手を自分の手と見比べる。
「……人間にしか、見えないよ」
 改めて呟いた声は、興奮のため震えていた。私は頷く。
「だって、人間に戻ったんですから」
「記憶喪失はそのせい?」
 ミティーちゃんはぱっと顔を上げ、悲痛な面持ちでそう言った。たぶんそうです、と言うと彼女は泣き出しそうな顔をしてまたうつむく。
「……そっか、でも、戻れるんだ……分かったよ、シェナちゃん。帰ろう。キャロと話さなきゃ」
 うつむいたままそう言うミティーちゃんの声はまた少し固くなっていた。




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