06 孤児院の伯爵夫人 --2



 レンガの壁の間隔は少しずつ狭くなっていった。それに伴ってまわりの工場はだんだん背の高いものになり、私たちの歩く道に影を落としていく。ほこりっぽい道の脇には薄紫の小さな花が寄り添うようにたくさん集まって咲いていた。
「ついたよ!」
 ジャンくんが歓声をあげて振り返った場所はちょっと見ると行き止まりのようだった。レンガの壁はちょうど途切れて、目の前には土手が見える。川だ。きちんと手入れされているというほどでもないが、荒れ果てていることもなく雑草がぽつぽつと茂っていた。
 ジャンくんに追いつくと、左手の方、工場の裏になっている場所がぽっかりと明るく開けている。その空間の奥で土手にへばりつくようにして孤児院があった。十数人の子供たちがきゃあきゃあ叫びながら走り回っている。彼らのおかげか、ここまでの工場の道とはがらりと空気が変わっていた。
 孤児院は一階建ての小さな建物だ。色あせた赤い屋根、灰色の薄汚れた壁に綺麗に磨かれた窓。すぐ横の土手から斜めに伸びる木の枝から軒下のところに何本かのロープが渡してあり、これでもかというほど大量に洗濯物がかけられている。
 私の頭の中は、まるで乾いた地面の上で水がいっぱい入ったバケツをひっくり返したようだった。目にするもの全てがその直前までは見たことのないものなのに、私がそれを見た瞬間私にとってなじみのある、よく知っている、当たり前の風景になっていく。私はこの景色を知っている。あの窓はがたついていて開けるのに苦労するし、玄関のドアノブはあまり乱暴に回すととれてしまう。子供たちが走り回っている前庭というか、家の前は雨が降ると水たまりがたくさんできて、みんな喜んで泥遊びをするんだけど後でものすごく叱られる。裏には小さな畑があって、そこでは簡単に育てられる野菜が植えられている。そして、あの子の名前はトムだ。隣の金髪の子はアディット、赤毛の子はレイバー。ラズ、レファナ、フロン――三人組の女の子たちはこちらを見ている。
「どう、シェナちゃん。何か思い出した?」
「ええ……そう、ですね……」
 ひょこっと顔を覗かせたミティーちゃんがそう尋ねてくるが、私は呆然としていて自分が何と答えたのかもよく分からなかった。脳裏に次々とイメージが浮かんでくる。これはたぶん、私の人間としての記憶だ。私はここで育てられ、大きくなって、院長さんを手伝いながらこの子たちと暮らしていたんだ。
「ねえ、早く早く!」
「はいはい、そんなに押さないでおくれ。何だっていうんだい?」
 半開きになっていた玄関のドアがバタン、と勢いよく開けられて家の中から数人の人影が現れた。それは子供たちに手を引かれた院長さんだった。その腕にはまだ生まれたばかりに見える赤ちゃんを抱いている。
「院長さん……」
 目の前にいる院長は、蘇った私の記憶の中の院長とほとんど変わらなかった。男物の作業用ズボンを穿いていて、シャツを腕まくりしてその上に白いエプロンを着ている。赤銅色の長い髪は後ろで全部一つにまとめ動きやすいようにしている。何もかもそのままだ。強いて言うなら少し痩せただろうか。
「シェナ!?」
 院長さんは私の顔を見た途端、大袈裟なほど大きな声を出した。赤ちゃんを揺すっていた腕がぴたりと止まる。大声に驚いたのか、それとも揺りかごが突然止まったのが不満なのか、赤ちゃんは火がついたように泣き出した。
「ああ、ごめんよ。泣かないでおくれ」
 院長さんは慣れた様子で赤ちゃんをあやしつつ、足が動かない私の方へ歩いてくる。その後ろでは、エプロンを掴み彼女のかげに隠れるようにして何人かの子供たちが私を警戒した目つきで見ていた。彼らの顔を見ても、私の頭には何も浮かんでこない。知らない子なのか。
「よく帰ってきたねえ、シェナ。また会えて嬉しいよ。スウィフト家の方からあんたが誘拐されたって聞いたときは本当にびっくりしたんだからね」
「お久しぶりです、院長さん……」
 言葉が続かない。頭が混乱している。キャロルさんの家で、孤児院に行ってみようと思っていたときの私と今の私は頭の中身が全く違う。どんな風に、何を尋ねようか。一応考えてはいたのだけれどそれは私が何も覚えていないことが前提だった。
「一年間もどこにいたんだい? いろいろ大変だっただろうね」
「院長さん、シェナは記憶喪失なんだよ。だからあんまり根掘り葉掘り聞かないであげて」
 ミティーちゃんが助け舟を出してくれた。院長さんの注意が彼女の方へ向けられる。男の子の恰好をした奇妙な少女をまじまじと見て、彼女は首をかしげた。
「お譲ちゃんはどなた? あまり見ない顔だね」
「あたしは……ミティー・ヒュームです」
「じゃあヒューム家のお嬢さまじゃないか。小さい頃にお父さんに連れられてここに来たことがあったね」
「覚えてるの!?」
 ミティーちゃんは飛び上がらんばかりに驚いた。私もちょっと考えてみて、何かの間違いではないかと思う。彼女がここへ来たのは弟が生まれる前だから、十年以上前のことだ。院長さんが愉快そうに笑う。
「記憶力はあたしの唯一の自慢だよ。なにせこんなにたくさんの子供たちの顔と名前を覚えてなきゃいけないんだものねえ。それで、お嬢さまはどうしてそんな恰好をしてらっしゃるんだい」
「これは変装だよ!」
「変装。へえ、それは大変だね。身分を隠して冒険しているわけだ」
 自信満々の答えを聞いた院長さんは笑いもせずに、真面目な顔をして大きく頷いた。それから彼女は後ろを向くと、まだエプロンにしがみついている子供たちを呆れ顔で見やる。
「あんたたち、いつまでそうやってるんだい。このお姉ちゃんはシェナだよ。まさか忘れて……あっ、そうだ、あんたたちは知らないのか」
 院長さんは私と子供たちを見比べるようにした。
「この子たちはシェナがいなくなった後に来たんだよ。ほら、あんたたち、このお姉ちゃんは怖い人じゃないから安心しな」
 子供たちはそう言われても動こうとせず、黙って私やミティーちゃんを見上げている。院長さんは彼らの説得をあっさりと諦めてしまった。
「さてと、シェナ。あんた記憶喪失だっていうけど、どれくらい覚えてるんだい? 自分の名前は覚えてるようだけど。あたしのことは? ここでの暮らしは?」
「その……さっきまではほとんど何も思い出せなかったんです。でもこのお家を見たらいろいろ思い出しました。たぶん、まだ全部じゃないですけど。院長さんのこともさっき思い出して……私、小さい頃は院長さんのこと、お母さんって呼んでいましたよね」
 私の返答を聞いて、院長さんは破顔した。またぐずりだした赤ちゃんを揺らしながら何度も首を縦に振る。
「そうそう。嬉しいねえ、せっかく帰っていても何も覚えてないってんじゃあんまりだからね。とにかくまた会えて嬉しいよ。ところで、今はどこにいるんだい?」
「キャロルさんという人の……」
「ああ、スウィフト家ね。今はキャロルさまが一人でお留守番してるんだって? もう長いことお会いしてないけれど、ご両親はお元気なのかね」
「さあ……私はお会いしたことがないので分かりません」
 その後しばらく院長さんは喋り続けた。ミティーちゃんは何度か茶々を入れていたけれど私は気の抜けた返事をするぐらいであまり彼女の話を聞いてはいなかった。私の頭は、まだ混乱から立ち直ってはいなかったからだ。上辺だけは会話に加わっている風を装って私は一人記憶の整理をしようと考え込む。頭にたくさん浮かんだイメージは私の記憶であるのは分かっているが、それが果たして本当に起こったことなのか、それとも私が勝手に頭の中で考えていただけのことなのか、それはいつのことなのか、そういうことはよく分からない。だが考えれば考えるほど深みにはまっていくようだった。




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