05 おしゃべりな三月ウサギ --5



 しばらく黙り込んだ後、ミティーちゃんは唐突に私に背を向けて歩き出した。ついていってもいいのだろうか、と一瞬だけ迷ったものの、見失うのはまずいと考え直し彼女の後を追う。足音や気配で私がいることに気付いているだろうが、彼女は足を速めたりいらついた様子を見せたりすることはなかった。ただバラ道を黙々と歩いていく。私はその背中に恐る恐る声をかけてみた。
「ミティーちゃん、そろそろキャロルさんのところへ戻りましょう?」
「嫌。絶対行かない」
 返事は冷たい。そして短い。私はどうにもいたたまれない気持ちになりながら黙ってミティーちゃんの背中を見ていた。
 バラの道を歩き続けていくうちに、赤いバラを見るのがだんだん嫌になってきた。深紅の花と深緑色の葉のコントラストはとても美しいと思うのだけれど、行けども行けどもそればかりでは飽きる。このお屋敷には別に赤いバラしか咲いていないわけではない。室内から庭を見るとほとんどいつも赤いバラが視界に入るが、その他の花だって植えられている。ポピーやカーネーション、マーガレットなどなど。隅の方には白い花がたくさん集まって咲き、まるで小さなボールがたくさん実っているように見えるかわいい木も一本あった。名前は分からないけれど。
 それなのにこのバラ道の中が赤いバラばかりが咲いている。まるでどこか別の世界に紛れ込んだようだ。バラは魔力を持っている、と昔何かの本で読んだことがあるけれど、それも本当のような気がしてくる。この道は普通にはたどり着けないような異次元の世界につながっていて、バラは私たちをそこに誘い込もうとしているのだ。
 そんなことをぼんやり考えていたので、歩くスピードを落としたミティーちゃんが私の機嫌をはかるような目つきでこちらを見ているのに気付くまで時間がかかった。はたと気付いた私は目を瞬かせて少し首をかしげる。どうしたのだろう。まるで私を怖がっているかのような態度だが、私、何かしたのかな?
 先程までの会話を頭の中で繰り返して、やっと自分がきつい言葉をかけたことを思い出す。そうだった。別に彼女を諌めたいわけではなかったのだけれど、無意識のうちに彼女の言葉を否定したのだ。なんとなくランさんを馬鹿な人だと言ってほしくなかった。彼について詳しくはない。そもそも良い感情を持っているとは言えない。……今はそうでもないかもれしないが、出会ってからずっとそうだった。それでもあの時私はランさんをかばったのだ。
「ミティーちゃん」
「何?」
 ミティーちゃんに声をかけてみると、彼女は明るい顔を作って振り向いた。それはどこからどう見ても天真爛漫で元気いっぱいの少女の顔だったが、私には少しだけ何かが彼女の表情に影を落としているように思えてならない。
 唐突に理解した。なぜ私がこんなにお屋敷中をまわってミティーちゃんを探していたのかを。このどこか人恋しそうで自分を守ってくれる人を常に探しているような目のせいだ。私はいつもこういう目をした子供たちに囲まれていた。その子たちを大切に思っていた。だから、彼らに似たミティーちゃんを放っておけなかったのだ。
 その子供たちとは、おそらく。
「ミティーちゃん、私、記憶喪失なんです」
「えっ?」
 いきなりそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう、ミティーちゃんはぽかんと口を開けて足を止めた。私も足を止めて、用意した言葉をすらすらとつなげる。
「記憶を失う前は、どうもこの町の孤児院で暮らしていたらしいんですね。それで、その孤児院に行ってみたら、記憶が戻るかもしれないって思ってるんです。ミティーちゃんは孤児院がどこにあるか知りませんか?」
「孤児院……かあ。うーん、キャロのお父さまが建てたやつなら知ってるけど、あとは分かんないや」
「キャロルさんのお父様が?」
「うん」
 キャロルさんはそんな事は一言も言わなかった。ならば違う孤児院だろうか?
「ええと、近くに川がありますか?」
「あるよ! ミーアが生まれる前、あっミーアっていうのは弟の名前なんだけどね、連れてってもらったから覚えてるんだ」
 川があるのならその孤児院である可能性もなくはない。どちらにしろここで考えていても仕方のないことだ。
「私をそこまで案内してくれませんか? 今からです」
「へ、いいの? 外に行っちゃって」
「キャロルさんのところには行きたくないのでしょう?」
「もちろん! 怒られるに決まってるもんっ」
「本当はあまり心配をかけない方がいいのでしょうけど、キャロルさんって怒るとけっこう激しいですよね。だから戻って刺激してまた怒らせるより、少し間を置いて落ち着いてもらってからお話した方がいいと思うんです」
「えー、結局戻るのー」
 ミティーちゃんは途端にぷうっと頬を膨らませるが、「まあ、しょうがないか」と呟いていかにも仕方ない、といった風に肩をすくめてみせる。
「分かった、じゃあとりあえず案内してあげるよ。シェナちゃんはこのお屋敷の抜け道とか知ってる? 普通に正門から出るのは無理だし、今は裏門にも人がいると思うからさ」
「抜け道、ですか……」







「もう、最悪―!!」
「すいません……」
 バタバタ乱暴に服をはたいて叫んでいるミティーちゃんに苦笑混じりに謝って、私は今通ってきた下水道のマンホールを元に戻した。ここは私がランさんに連れられてお屋敷へやってきた時に通った下水道だ。暗いし臭いはひどいし、あまり使いたくはない通路だが他に抜け道など知らないのだから仕方がない。
 あの時私は下水道が何なのか分からなかったが、今は分かる。自分自身でも気づけないほど密かに、ゆっくりと、人間としての記憶が戻りつつあるということだろうか。記憶が戻るということはもっと、まるで朝日が昇って夜が明けたときのように、突然はっきりと記憶が浮かび上がってくるのかと思っていたのだがそうではないらしい。頭の中にいくつも引き出しがあって、記憶が失われているときは鍵がかかっている。その鍵がいつの間にか外れていて、開けようとしてみて初めてそのことに気付く。そんな感じだ。
「ほらシェナちゃん、スカート汚れてるよ」
「ありがとうございます」
 立ち上がった私のスカートをはたいて、ミティーちゃんはにこりと笑い私の手を握る。その目から機嫌をとるような色はほとんど消えていた。
「じゃあ、行こっか!」
 薄暗い路地裏から明るい外の道に向けて元気いっぱいに歩き出す。私はそんなミティーちゃんの背中に黙って微笑んだ。




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