05 廃屋にて



 朝起きてみると、診療所の庭は一面真っ白になっていた。夜の間に雪が積もったのだ。道理で寒かったわけだ、と思いつつ玄関のドアから門のところまで点々と足跡をつけて歩いてみる。まだ誰も歩いていない綺麗な雪の上を歩くのは楽しいものだ。私は子供の頃に戻ったような気持ちで自分の足跡を見下ろす。そしていいことを思いついた。今日も夕方近くにミティーちゃんとミーア君が遊びにくるだろう。それまでできるだけここの雪を残しておいてあげよう。落葉で遊ぶことはできないだろうが、雪遊びができたら充分楽しめるはずだから。私は門から玄関まで、同じ場所を何度も歩いて道を作った。どけなくてはいけないほどの量の雪ではないから、患者さんたちは好き好きに歩いて雪を荒らしてしまうだろう。だから、分かりやすく道を作っておいたら、皆なんとなくその上を歩いてくれるかもしれない。そういう小さな思い付きだった。
 夕刻頃になると、昨日と同じ馬車が診療所の前で止まった。窓からその様子が見えて、私はすぐに庭へ出る。馬車から下りてきた二人の顔が白い雪に照らされた。
「雪、残ってる! やったあ!」
 朝方作った雪の道はしっかりと効果を発揮してくれた。すべての患者さんがその道を通ってくれたわけではないけれど、小さな庭に積もった雪は子供たちがはしゃぐには充分なほど残っていたのだ。ミーア君がたたた、と真っ白な雪の上を駆け抜け、足跡で星の形やアルファベットの形を描いている。エドワードさんも今日はランさんの許可が出ているからか、笑顔でミーア君の相手をしていた。
 ミティーちゃんは両手で雪をかき集めて、大きな雪の塊を作りはじめた。私が近付くと、にっと笑って手招きをする。
「一緒にやろ」
「はい」
 スノーマンを作るには少し雪が足りないが、小さなものならいくらでも作ることができる。私とミティーちゃんは手のひら大の小さなスノーマンをせっせと量産した。二段の小さなスノーマン、三段で背の高いスノーマン、ちょっと形の変わった、スカートをはいたスノーマン。
「この子がミーア君で、この子がミティーちゃん。この子はランさんですね」
「ちがうよ、これはシェナちゃん。今からエドさんも作んなきゃ」
「じゃあ、私がミティーちゃんを作りますね」
 スノーマンを十体ほど作ったあたりで、足跡をつける場所がなくなったミーア君が息を弾ませてやってきた。寒さで赤くなった鼻をこすりながら、スノーマンを一つ一つ指さしてモデルになっている人の名前を呼んでいく。驚いたことに、ミーア君は十体のスノーマンの名前をほとんどあててしまった。こう言ってはなんだが、それぞれのスノーマンは大きさ以外に違いはあまりないのだ。きょうだい同士通じ合うものがあるのだろうか。
「おにいちゃん、おむかえにきてくれないね」
 ランさんのスノーマンを小さな手のひらに持ち上げ、ミーア君はぽつりと呟いた。ぐす、と鼻をすする。寒くなってきたのかもしれない。私はエドワードさんに目配せをした。ランさんが来なくても、そろそろ帰るべき時間だろう。エドワードさんは黙って頷く。
「さあ、今日はもう帰りましょう。最近は物騒ですしね」
「でも、おにいちゃん、まだこないよ」
「別にお兄ちゃんが来なくたって帰れるわよ」
 ミティーちゃんが立ち上がり、ワンピースの裾をはたいて雪を落とす。
「まったく、お兄ちゃんったら約束も満足に守れないんだから。昨日も忠告してあげたっていうのに、帰りが遅いどころか帰ってこなかったのよ。どこで何してるんだか知らないけど」
 そう零した彼女の顔には、怒りよりも心配の色の方が濃く表れていた。


 ミティーちゃんとミーア君が帰ってしばらくしてから、私は昼間のお使いで買い忘れたものを買いに市場へと向かった。診療所で働き始めてから、こうしてお使いに出るのはよくあることだが、今日はいつもより人影が少ないような気がする。ランさんが言っていた殺人事件のせいだろうか。あまり遅くまで出歩いていては危険だし、オルドジヒさんに心配をかけてしまう。私の足は自然と小走りになった。細い路地への入り口を通り過ぎようとしたとき、そこから飛び出してきた人と思いっきりぶつかって転んでしまう。
「きゃっ」
「わわっ、す、すみません!」
「あれ、エドワードさん」
 謝りながら手を差し出してきたのは、先程別れたばかりのエドワードさんだった。傍目にも分かるほどひどく慌てている。
「何かあったんですか」
「それが、大変なんです。ランドルフ様が、怪我をしてしまって」
「えっ、怪我、ですか」
 顔が強張るのが分かった。エドワードさんは、こちらです、と言って走ってきた方へきびすを返す。私は彼を追って細い路地へと飛び込んだ。既に日が傾いているとはいえ、路地は薄暗くて、しかも知らない道だ。私はエドワードさんを見失わないように一生懸命彼を追いかけた。こんな時にこんな場所で迷子になるのはごめんだ。
「ここです」
 エドワードさんに案内された先は、人通りの少ない裏通りの一角だった。一目で誰も住んでいないことが分かる、朽ち果てた廃墟である。二階建てで小さな庭もあるが、それほど大きな家ではない。生い茂った草木や蔦がびっしりと外壁を覆っている。
 鉄製の門扉の下には錆びついた南京錠が落ちていた。壊れてしまったのか、それとも壊されたのかもしれない。門の扉も、玄関の扉も半開きになっている。
「こ、こんなところに、ランさんが?」
「ええ、奥の方の、暖炉のある部屋にいます。私はオルドジヒ先生を呼んできますので、シェナさんはランドルフ様の様子をみていていただけませんか」
「は、はい、わかりました。お願いします」
 エドワードさんの必死な目に気圧されつつ頷くと、彼は診療所を目指して走って行ってしまった。私はそれを呆然と見送り、こわごわと廃墟を仰いだ。お化け屋敷にしか見えないこのぼろぼろな家の中に、本当にランさんがいるのだろうか。いや、エドワードさんがそう言うのだから本当なのだろうけど、どうしてこんな場所なのだろう。あまり足を踏み入れたい場所ではないが、怪我をしたランさんがいるというならそんなのんびりとしたことは言っていられない。私は半開きになった扉の隙間から廃墟の中へ滑りこんだ。
 玄関ホールは薄暗かった。外の荒廃ぶりからすると、中はそれほど荒れてはいない。一番目に付いたのは泥だらけになった床だ。それも自然に積もった泥ではない。足跡だ。私の立っている玄関と、ちょうど向かい合う位置のドアとの間を何度も往復している。私はどきどきする胸を押さえながら、そうっと奥の部屋のドアノブを握った。
 ドアを開けて最初に目に入ったのは、部屋の中央に落下したまま放置されたシャンデリアだった。かなり豪華な物のようだが、壊れて埃や蜘蛛の巣だらけになっている。精巧な装飾も落下の衝撃で割れてしまったのか、その破片が細かく散らばっていた。
 部屋の中を覗きこむと、暖炉の前に誰かが横たわっているのが見えた。ランさんだ。両手は後ろ手に回されており、暖炉の柵に手錠でつながれているようだ。
「ランさん!」
 名前を呼んでも反応はない。眠っているのだろうか。揺り起こそうと肩に手をかけて、予想以上の冷たさに手が止まる。服の上からではあるが、人肌の温かさがまったく感じられない。まるで石の像が横たわっているようだ。脳裏に最悪の事態が思い浮かんで心臓が跳ねる。かまされている猿轡を外し、口の中に押し込まれている布を引きずり出すと、弱々しくはあるがちゃんと息をしているのが分かった。よかった。本当によかった。
「ランさん、しっかりしてください。ランさん」
 肩を揺らすと、ランさんは小さくうう、と呻いた。ゆっくりと開いた目がぼんやりと私を見上げる。
「大丈夫ですか、ランさん、私が分かりますか?」
「シェナ……」
 ランさんが動いた拍子にがちゃり、と金属の擦れあう音がした。手錠だ。とにかく、まずはこれを外さなければいけない。手錠を調べてみると、鍵穴らしき小さな穴がある。鍵はこの部屋の中にあるだろうか。探してみるしかない。
 私は羽織っていたショールをランさんの体にかけた。大して温かくはないだろうが、ないよりはましだ。背中を撫でていると、意識がはっきりしてきたらしいランさんが呟いた。
「やっと……朝か」
「やっと?」
 違和感を覚えて聞き返し、思い出した。ミティーちゃんはさっき、「お兄ちゃんは昨日の夜帰ってこなかった」と言っていたはずだ。雪が積もるほど冷え込んだ昨日の夜を、ランさんはコートも火の気もなくここで過ごしていたのか。ランさんの血の気の失せた顔を見下ろし、私は立ち上がった。早くここから連れ出して、オルドジヒさんに診てもらわなければ。
 部屋の中をぐるりと見渡し、鍵のありそうな場所を探す。ドアのそばの壁にかけられた鍵の束が目に入った。手に取って一つ一つ調べてみるが、どれも大きな鍵で手錠の穴に入りそうにはない。次に埃の積もった整理ダンスの引き出しを開けていくが、こちらは全て空っぽだった。私は目に付いた家具を一つずつ調べながら、この部屋にはないかもしれないと思う。誰か、ランさんに手錠をかけた人が持ち去っている可能性もあるのだ。そうだとしたら、手錠を外すことはできない。人間の力で壊せるようなものではないから、なにか器具が必要になるだろう。オルドジヒさんだけではなく、他にも男の人を呼んで助けてもらわないといけないかもしれない。
「ランさん、すぐ戻ってきますから、ちょっと……あれ」
 待っててくださいね、と言おうとしたとき、暖炉の中で何かが光ったのが見えた。
「どうした」
「ええと、何かあるみたいです」
 柵をまたいで、暖炉の中を覗きこむ。暖炉は何年も火が入った形跡がなく、煤だか埃だか分からない黒い物がうっすらと積もっている。転がった炭と炭の間にきらりと銀色に光るものがあった。そうっとつまみあげてみると、期待通りそれは鍵であった。試しに鍵穴へ差し込んでみると、かちゃりと音がして鍵が外れる。冷え切ったランさんの手を手錠から抜いた。どれほど暴れたのか、両の手首は擦り切れてひどい傷になっている。血はとっくに固まり、赤黒い線をいくつも描いていた。
「ランさん、手錠取れました」
 ランさんは横向きからうつ伏せへと体勢を変え立ち上がろうとするが、左腕に力が入らない。一晩中体の下敷きになっていたため、すっかり痺れてしまっているようだ。左足も、腕ほどではないが同じ状態である。右腕と右足だけで立ち上がろうとするが、そんなことでバランスがとれるはずもない。手を貸そうとしたとき、左膝がかくんと折れた。
「きゃっ」
 ちょうど腕を広げていたため、図らずも倒れてきたランさんを抱きしめる形になってしまう。咄嗟に彼の体重までは支えきれず、そのまま床に尻餅をついてしまった。ぶつけた痛みに思わず顔をしかめるが、ランさんに気付かれないようすぐに何でもない顔を装う。
「ランさん、無理しちゃダメです」
「……悪い」
「エドワードさんがすぐに助けを呼んできてくれますから、待っててくださいね」
「待て、エド……エドがいるのか」
 ランさんの冷たい手が、ふいに強く私の腕を引いた。
「どうしたんですか」
「あいつは、駄目だ……早く、逃げないと」
 立ち上がるのを止めてランさんの顔を覗き込むと、その顔は怖いほどに強張っていた。彼に手を貸しながら自分も立ち上がったとき、部屋のドアが開く音が耳に届く。ランさんがハッと顔を上げた。




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