熱を出して寝込んだ妙子が目を覚ましたのは、三日後のことであった。
 状況を把握しようと部屋を見回す妙子の視界の中に、すぐ傍へ控えていた奏太の顔がひょこんと覗く。小さな手が彼女の首へと伸ばされた。冷たさも温かさも感じない不思議なその指が首を優しく撫でたとき、妙子は自分の首に包帯が巻かれていることに気付く。どうして包帯なんか、と思った瞬間一連のできごとが頭の中に蘇った。
「だめだ」
 反射的に飛び起きようとした妙子の肩を奏太ががしりと掴んだ。
「もう、大丈夫だ。怖くない」
「そ……」
 妙子は震えながら口を開くも、口の中も喉の奥もからからに渇ききっていた。かすれた変な音しか出せず、咳払いをしても違和感が消えない。妙子は包帯の上から喉を押さえて俯いた。
「セイ」
 奏太はぱっと妙子から離れ、襖を開けて廊下に顔を出す。するとすぐに足音が聞こえ、水の入ったコップを持った清が現れた。妙子の傍らに膝をつき水を差しだして飲めますか、と優しい声色で問う。妙子は小さく会釈をして感謝の意を示しつつ水を受け取った。体中に泥濘のまとわりつくような奇妙な疲労感を、渇いた喉を滑り落ちる水の爽やかさが、ほんの少しだけ拭い去ってくれたような気がする。
 水を飲みほして一息つくと、いつの間にか傍らの清がきちんと正座をしていた。
「怖い思いをさせてしまって申し訳ありませんでした」
 清は深々と頭を下げる。妙子は束の間呆けた顔でそれを眺めていたが、我に返ると慌てて自らも正座をし清よりも深く頭を下げた。
「とんでもないです。私こそ、ごめんなさい」
「どうして謝るのですか。妙子さんは何も悪いことはしていません」
 清の方も妙子の行動に驚く。顔を上げてくださいと言いながら彼女の細い肩に手を伸ばすが、肩に触れるか触れないかの微妙な距離で手を迷わせた。妙子は顔を上げない。清はしばらく迷った後、結局触れないことにして困り顔で彼女を見下ろした。
「妙子さん」
「……はい」
「食べ物は、なにか食べられそうですか」
 妙子が少し顔を上げる。
「熱は下がっているようですが、まだ無理をしてはいけません。食欲はありますか。食べられるなら食べておいた方がいい。なにか食べやすいものでも用意しますよ」
「い、いえ」
 そんなご迷惑はかけられません。妙子はそう続けようとしたのだが、声がかすれてしまった。咳払いをする妙子の脇に転がった空のコップを拾い上げ、清は立ち上がる。
「夕飯には少し早い時間ですが、食べなければ元気になりませんからね」
 夕飯、と妙子は口の中で呟いた。その表情に焦りが浮かぶ。咄嗟に周りを見回すが、部屋の中には時計がなかった。窓辺の障子は閉められていて外の景色もうかがえない。
「あ、あの、今は何時でしょうか」
「え」
「伯父さんが、三時の汽車に乗ると言っていたのです。それで」
「ああ、そうでしたか」
 部屋を出ようとしていた清は立ち止まり思案顔になった。視線が妙子から、襖にもたれかかって立っている奏太へと移動する。奏太は無言で清の目を見返すと、その手から空のコップをもぎ取るように奪い取り廊下へ出て行った。それを見るともなしに見送ってから、清は改めて妙子の前に腰を下ろす。
「まだ、ちゃんとご説明していませんでしたね。あの男性は、あなたの伯父さんではありません」
 えっ、と声を漏らし、妙子がおずおずと清を見上げた。
「あの男性とは、今回が初対面だったのではありませんか」
「は……はい」
「あの日、亡くなったお母さまから伺いました。亡くなったあなたのお父さまに、ご兄弟はおられなかったそうです。……昔に比べたら少なくなりましたが、女性や子どもを商品として売り買いするような輩も世の中にはいます。身寄りのなくなったあなたのことをどこかで聞きつけてきたのでしょう」
「売り買い、って。じゃあ私、東京へは」
「行かなくてよかったのですよ。そう、本当に。よかった」
 清が笑う。その声はいつも通りの優しい声だったため、俯いてしまった妙子の耳を素通りしてしまった。もし彼女が顔を上げたままでいたなら、笑う清の顔が泣き顔のようにかすかに歪んだことに気付いただろう。だが、妙子の内心には清のことを気にしている余裕はない。あの伯父が他人だったというのならば、彼女にはもう親戚と呼べる人が誰もいないのだ。それはつまり、十三歳の少女がこれからは一人きりで生きていかなければならないということである。妙子の顔からは徐々に血の気が失せていった。行く宛てはない。頼れる人もいない。
 そんな妙子の心の内を見透かすように、俯く彼女の顔を清が覗き込んだ。
「妙子さん。うちで一緒に暮らしませんか」
「え」
「他に行く場所はないと言っていたでしょう。それならうちに来ればいい」
「でも」
 妙子は泣き出しそうになり、弱々しく首を横に振った。
「奏太も同じことを言ったと思いますが、迷惑だとかそういうことは考えなくていいんです。私はあなたに同情しているわけではないし、可哀想だと思っているわけでもない。ただ守らせてほしいのです。危険な目には遭わせたくない」
 ふ、と自嘲気味の笑いが清の口から漏れる。
「今回の事でほとほと身に染みました。もしあの時、間に合わなかったら、どうなっていた事か。考えただけでも恐ろしい」
 妙子の膝の上で握りしめられた手に、清の手がそっと重ねられた。握りこぶしのままの手を持ち上げると、両手で撫でながら固い指を少しずつ開いていく。妙子は最初こそ体を強張らせたが、浮かない顔をしながらもされるがままになっていた。
「それでも迷惑はかけたくないというなら、家族になりましょう」
 清はまっすぐに上目遣いの妙子を見つめる。
「私と結婚してください」
 妙子はぽかんと口を開けた。投げかけられた言葉の意味を頭の中で何度か反芻し、じわじわと理解する頃には頬が紅を差したように赤みを帯びる。握られた手がやけに熱く感じられ、思わず手を引こうとするが、添えられていただけだったはずの清の手にぐっと力が込められ手が離れない。恥ずかしいような、泣きたいような、逃げ出したいような、よく分からない感情が妙子の中に渦巻いている。
 対して、清の方は憎らしくなるほどいつも通りの微笑みを浮かべていた。
「夫婦なら、同じ家で一緒に暮らしていても何もおかしいことはないでしょう。それが嫌なら父さんの養子になるのも手ですね。奥さんでも妹でもいいんです。あなたに遠くに行ってほしくないのです」
 妙子は俯いた。その拍子にその潤んだ目から涙がぱたぱたと落ちる。二人の重ねられた手の上に降るそれを見て、清はほんの少し妙子との距離を縮めた。
「……泣かないでください」
 耳元で囁くと、膝の上に爪を立てていた妙子のもう一方の手がおずおずと清の方へ伸ばされる。その手は幼い子どもが甘えるような仕草で、掴んだ着物の袖を引いた。清はしばらくその手と俯く妙子の頭とを見比べて、袖を引く手を逆に掴み返し自分の方へ引き寄せる。妙子のやつれた体が均衡を崩して胸の中へ倒れる。息を呑む音が耳のすぐ近くで聞こえた。ふわりと香ったのは少女の匂いではなく喪服に染み込んだ線香と汗の匂いだった。
「ごめんなさい。逃げ場がない時にこういう事を言うのは、卑怯ですね」
 妙子は小さく首を振る。決して目を合わせようとせずに、小さな声で呟いた。
「私……まだ……十三です」
「え」
「子どもで、何も、できない……から」
 清はぱちぱちと目を瞬かせる。
「なんだ、そんな事ですか。十三まで待ったんです。あと数年ぐらい私にとってはあっという間ですよ。あなたはもう忘れてしまったのですか」
 くすくすと笑いながら清がそう問えば、妙子の赤く充血した目が彼を見上げる。
「針千本では足らぬと言ったのは、あなたでしょう」
 この言葉に妙子は答えなかった。正確に言えば、答えることができなかった。堰を切ったように溢れ出した涙と嗚咽は彼女からまともな言葉と思考回路を奪い、彼女はなりふり構わず清へしがみ付いて泣き続けた。涙が涸れ喉が嗄れ、しゃくり上げる背中の震えが止まるまで、清はまだ幼いその背中を撫でてやった。




 風雨にさらされ続けがたつく雨戸を開けると、ちぎれた黒い雲の間から朝日が爽やかに顔を出していた。清は店の表の雨戸を全て開け放ち、土間の上で渇いた泥を箒でせっせとかき出し始める。狭い店内に埃が舞った。それを思い切り吸い込んでしまい、けほけほと軽い咳を漏らす。
「風邪か」
 寝起きの恰好のままで土間へ下りてきた玄治がそれを聞き咎めた。清は苦笑を浮かべてそれに応じる。
「砂埃ですよ。おはようございます、父さん」
 店先の掃除を簡単にすませると、二人は昨夜しまい込んだ売り物の籠を並べ出した。みずみずしい野菜を乗せた籠たちは、いつもならば店を少しばかりはみ出して往来にまで出ているものだが、夜のうちに降った雨で道はどろどろだった。汚れないようにと手狭に並べられた商品たちは心なしか窮屈そうに見える。
 広くもない店の支度はすぐに終わった。玄治が店の奥に置いた愛用の丸椅子にどっかりと腰掛け、清は奥の廊下に腰を下ろす。そうしてちらりと台所へ視線をやった。のれん代わりに吊している黄ばんだ布の下に、狭い台所を行ったり来たりする少女の足が見えている。時折奏太の小さな足がのぞき、くすくすと笑い声も聞こえてきた。
「元気になったみたいで、よかったな」
 ぽつり、と玄治が漏らす。その表情はよかった、などという割には少し固い。
「妙子ちゃんには本当のことは話さないのか」
「何のことでしょう」
 微笑みを崩さずに清が首を傾げた。
「みなしご一人売るために、わざわざ葬式を手配してまで親戚の振りをする阿呆がどこにいるってんだ。どうせつくなら、もっとましな嘘をつけ」
 清はもう一度台所の方へ目をやる。妙子も奏太もこちらに背を向けていた。他愛ないお喋りの声がわずかに聞こえてくる。
「あの人はここへ来た日から行方が知れず、お宿へも戻らなかったそうです」
 清の声は囁くように細められた。がしがしと頭を掻いていた玄治の手が止まる。
「どこへ行ってしまったのかまでは私も知りませんが、少なくともこの世には、もういないでしょうね。憑かれていたのは妙子さんではなくあの男性の方です。ただならぬ怨念でしたが、巻き添えになる前に妙子さんを引き離せたのは僥倖でした」
「怨念ねえ」
「巷に溢れる怪談にもよくある話ですよ。非業の死を遂げた者が、自分を殺した相手を同じ目に遭わせてやろうと祟る。きっとあの人も何か、そういう恨みを買うようなことをしたのでしょうね」
 台所の方から、空腹を誘うおいしそうな匂いがただよってきていた。
「お宿の方には、急用ができて東京へ戻ったと言付けました。東京から何か聞いてきたときには同じように答えるしかありませんね。まあ、東京の家族がこちらへあの人を探しにくるようなことは万に一つもないでしょうが」
「やけにきっぱり言い切るんだな」
「分からなかったんですよ」
 何がだ、と問いかけようとして玄治は声を詰まらせた。いつも通りに笑っている清の顔がどこかひやりと冷たく見える。
「憑いているものが、何人分のものなのか。数えられなかったんです。いったい何人殺めればあれだけのものが育つのか、分からなかった」
 淡々とした口調でそこまで話すと、清はふっと口をつぐんだ。同時に台所ののれんを捲った妙子が顔を出す。
「朝ご飯、できました」
「ありがとうございます。今、行きますね」
 立ち上がった清がにこりと笑うと、妙子もうつむきがちにはにかんでまた台所へと引っ込んでしまった。奏太が台所から出てきて味噌汁の入ったお椀を居間へと運んでいく。清は板の間へ上がり運ぶものはありませんか、と台所へ声をかける。大丈夫です座っていてください、と答えが返ってくる。
 玄治はその平和な光景をぼうっと見つめたのち、嫌なものを振り切るかのように首を振って立ち上がる。そうして手持ち無沙汰に立ち尽くしている清の背中を軽く小突いた。
「邪魔だ、狭いんだからとっとと座らんかい」
 清はすみません、と言ってまた笑った。





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