夕刻とはいえ、まだ日没までには時間があり、街道には家路を急ぐ人々が行き交っている。商店街がもっとも賑わう時間だ。それにも関わらず、清の目指す八百屋は早々と店じまいをしていた。道にはみ出して並んでいた商品は全てしまい込まれ、ご丁寧に雨戸まで閉めきられている。正面の戸には「ご用の方は隣まで」と記した紙が貼り付けてあった。清が出かけるときに、父さんも家を離れていてくださいと頼んだのを素直に守ったらしい。八百屋の隣は靴屋であり、そちらは玄治と同じくらいの年の老夫婦が営んでいる。靴屋の主人は玄治の囲碁友達だ。玄治が気まぐれに店番を放り出して隣家に遊びに行くのはよくあることであり、近所の人に取り立てて不審がられることもないだろう。もちろん、玄治もそれを見越しての行動である。
 長屋から全力疾走してきた清は八百屋の前で一旦足を止めた。上体を折り曲げてぜいぜいと肩で息をし、近くに人がいないことを確かめて雨戸を開ける。滑り込むように室内へ入りすぐにまた閉める。静まりかえった店の奥、妙子と奏太がいるはずの客間の襖が倒れていた。履き物は脱ぎ捨て襖を乗り越える。
 妙子が部屋の中で仰向けに倒れていた。目を閉じた彼女は悪い夢にうなされるように苦しげな息を吐いている。首筋には一本の赤い線が走り、少量ではあるが出血している。妙子が怯えたように身じろぎをするたび、畳の上にぱたぱたと血の跡が増えていく。
 そしてその妙子の胸を、男の足が押さえつけるように踏みつけていた。黒い喪服を着た大人の男だ。顔は分からない。なぜならば、男には首から上がなかったからだ。首の代わりなのか、男の首があったであろう箇所には赤い着物を着た子どもがちょこんと腰掛けている。無論子どもの首もそこにはない。男と子どもは、同じように身を屈めて存在しない目でじっと妙子を見下ろしていた。
 ただ見下ろしていたと言えば語弊があるだろう。男は動かずにいたのではなく動けなかったのだった。男の手には錆びて黒ずんだ鋸が握られている。妙子の体を足で押さえつけ、両手で鋸を突きつけたその姿のまま静止しているのだ。鋸の刃は妙子の首まであと握り拳一つ分という所で止まっていた。奏太がその鋸の刃を素手で鷲掴み、妙子の頭上で仁王立ちをしているのだ。その小さな体で出せる限りの力を込め、鋸を押し返しながら血走った目で男と子どもを睨みつけている。両者の力は拮抗しているのか、刃の位置は時折ゆらゆらと動きながらもまた同じような位置に留まった。
「縛」
 すぐに状況を把握した清が印を結ぶ。その声が届くと同時に、首のない男と子どもはぴたりと時が止まったかのように動きを止めた。押し返す力が消えたことでたたらを踏んだ奏太がよろめく。清は印を結んだ手を緩めずにじりじりと男の前面へ回り込んだ。
「奏太」
 清の方を振り返った奏太はふわりと宙に浮いた。思いっきりしかめた顔を子どもへと近付け、かっと大きく口を開く。同時に清は印を解いた。
 耳をつんざく高音が、鼓膜が破れそうなほどの大音量で鳴り響いた。宙に浮く奏太の体そのものがまるで楽器にでもなったかのように、全身が空気を震わせ耳を覆いたくなる音を奏でる。動けるようになった男は2,3歩後ずさった。子どもの方も奏太を避けるように身をのけぞらせた。
 その隙を見逃すはずもない。気を失っている妙子の肩に腕を回し、男から離れて部屋の壁際まで彼女を移動させる。未だ目を覚ましそうな気配のない彼女の手に呪符を一枚握らせると、印を結んでぶつぶつと呪文を唱えた。清の唱える言葉一つ一つが妙子の体に染み込んでいく。
「ぎゃっ」
 短く悲鳴があがる。驚きから立ち直った男が奏太めがけて鋸を振り回したのだ。奏太の音は途切れ、呆気なく吹っ飛ばされた小さな体は破れて倒れている障子戸の上に放り出される。反動で一回転した奏太は痛みを感じている様子もなく、飛び起きて男を睨みつけた。鋸の刃をもろに喰らったであろう胴体には傷一つない。それもそのはずだ。奏太は清の使役霊であり、生身の存在ではない。
「奏太。もういいよ、離れてなさい」
 噛みつかんばかりの勢いで男に対峙していた奏太が、その一言で火が消えたように大人しくなる。鋸を構えた男が緩慢に清の方を向いた。清も立ち上がり、男と真正面から向き合うと微笑みを浮かべる。
「あなたが欲しいのはこれでしょう」
 清はその腕に、ぐったりと目を閉じた妙子を抱いていた。男の上の子どもが身を乗り出す。男が清に向かって一歩足を踏み出す。
「いいですよ、差し上げます」
「セイ、何を」
 奏太がその大きな瞳をまん丸く見開いた。反射的に口をついて出たのだろうその言葉の続きは、横目でちらりと向けられた清の意味ありげな視線で飲み込まれる。男がまた一歩近付いた。少しずつ、部屋の気温が下がっていくように感じられる。清は微笑んだままじっと怪しのものを見つめる。奏太も口をつぐんで接近する彼らを注視している。鋸を持っていない方の手が伸び、妙子の胸元を掴んだ。それでも清は動かない。妙子が苦しげに身じろぎをした。男の手が妙子を床へと引きずり下ろす。細い体を足で押さえつけ、黒く錆び付いた鋸の刃を首筋へぴたりとつけた。
 冷たい感触が気付けになったのか、その時妙子がゆっくりと目を開けた。ぼんやりと天井を見上げる彼女には構わず男は鋸を滑らせる。ざり、という嫌な音と共に彼女の首筋からは夥しい量の血が流れ出した。激痛に妙子の意識が覚醒する。目を見開き、逃れようと必死に暴れ出す。だが、彼女の渾身の抵抗は男にとっては何の障害にもならないものだったようだ。足を振り回しても男には届かず、踏みつけられた体を起きあがらせることはできない。鋸を止めようとする両手も、首と一緒に切り刻まれるだけだ。狂ったようにもがく彼女の首を、男は何の躊躇もなくざりざりと切り落としていく。
「お、じ、さ……」
 限界まで見開かれた妙子の目から涙が零れた。言葉は途中から途切れ、喉元で赤い泡をこぽりと発生させる。夥しい量の血が流れ、畳の上はもちろん、男の喪服も返り血で赤く染まっていく。一歩離れた所に立つ清の袴にも返り血が飛んだ。
 たすけて。妙子の口がそう動くのをじっと見ながら、清は微笑みを崩さない。奏太も同様にその光景を見ながら、無表情を貫いた。そのうちに妙子の抵抗は弱まり、噴き出す血も勢いを無くしていく。力を失って投げ出された手の指が痙攣を起こす。
 どれだけの時間を要しただろうか、男が手を止めた時には妙子の体はぴくりとも動かなくなっていた。完全には胴体から離れず、文字通り薄皮一枚でつながった上体の首を掴んで持ち上げると、勢いをつけてその最後の一皮を力任せに引きちぎる。びちゃりと血が飛んだ。
 男が、戦利品を掲げるように切り離した首を持ち上げる。男の上に乗った子どもが嬉々としてそれを奪い取った。男の首の断面の上で身を踊らせ、戦利品を掲げ振り回す。けたたましい笑い声が清と奏太の耳を打った。どこから発しているのだろうか、子どもはその着物を更に赤く染めながらけたけたと笑っているのだ。愉悦と憎悪に溢れたおぞましい笑い声だ。
 対して、男の方は首を失った彼女に対して何の感慨も抱いていないようだった。糸が切れた操り人形のように両手をだらりと体の横に下げ、子どもの笑い声の中ぼんやりと立ち尽くしている。やがて踊り飽きたらしい子どもが振り回した首で障子戸の方を指さすと、男は赤くなった鋸を畳に引きずりながらそちらへ向かった。奏太が弾かれたように障子戸から離れる。壁にへばりつくようにして警戒心を露わにするが、奏太の存在はもはや男と子どもの眼中にないらしい。倒れた障子戸を踏み越えて裏庭へ出ると、振り向きもせずどこかへ向かって歩いていく。姿はすぐにかき消すように消えてしまい見えなくなったが、子どもの笑い声だけはしばらくの間彼らの耳に届いていた。
 いつの間にか日は落ちていた。灯りのない室内は暗く、部屋の中央に横たわる首のない体も、幸いなことによく見えない。だからといってそのままにしておくわけにはいかなかった。奏太は立ち尽くす清の足下へそろそろと歩み寄ると、無言で彼の袖を引く。それではっと我に返った清は、部屋の中央から目を逸らして胸の前で両手を合わせた。ぱん、と音が一つ響く。
 それが合図になっていたようだ。部屋中に飛び散った血の跡も、横たわる首のない死体も、まるで最初から何もなかったかのように消え失せてしまった。胴体のあった場所には、人の形を象った紙が一枚落ちている。その紙には首がなかった。清はそれを一瞥すると、背後の壁の方を振り向く。先ほどまでは何もなかった壁際で、呪符を握った妙子が寝息を立てていた。首に痛々しい傷は残っているものの、胴体とはしっかりつながっている。清は妙子の傍らに膝をつき、彼女を抱き起こした。腕の中にある温もりが泣けそうなくらい心地よい。清は妙子の細い体に顔を埋めるように彼女を強くかき抱いた。心の蔵が脈打つ音が聞こえる。
「よかった……」
 腹の底から絞り出すような声が出た。その声の弱々しさに自分でも驚いていると、体勢が苦しかったのか妙子がうう、と小さく呻き声を漏らした。慌てて腕の力を緩める。額にかかる前髪をそっと払ってやると、掌に妙子の吐息がかかった。清はほろ苦い笑みを浮かべ視線を落とす。手がわずかに震えているのに気付いた。
「身代わりだと分かっていても、嫌なものですね。真っ向から対峙して調伏するよりは、満足して帰ってもらう方が安全ですから、仕方ないのですが」
 言い訳のようにそう言いながら清は妙子を抱いて立ち上がった。妙子はしばらく目を覚ましそうにない。恐ろしい思いをしたこの客間にいつまでも寝かせておくのは良くないだろう。襖や障子戸の修理をする必要もある。ひとまず隣の居間へ移動させようと歩き出した清の袴の裾を、俯いた奏太が控えめに引っ張った。
「うん、どうした」
 声をかけると、奏太は珍しいことに言葉を探して言いよどんだ。縋るような目を清に向けて、ぽつぽつと押し出すように感情を口に出す。
「……死を、いたむとは、こういうことだな」
 清は目を瞬かせ、それからふっと笑顔をこぼした。




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