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■ 第1話 リッツ・アリオのお仕事


 リッツ・アリオの母はとても物知りであった。
 ベッドに入る時間になってもなかなか寝付けない息子のため、彼女は毎晩たくさんの話を語って聞かせた。彼らの暮らす「島」はとても大きな巻貝をひっくり返したような形をしていること。「島」の外は家のお風呂とは比べられないほどたくさんの水で満たされていて、その外の世界は「海」と呼ばれていること。海の水は塩辛くて飲むことができないこと。その塩辛い海の中では、食卓に上る魚や貝以外にもいろいろな種類の生き物が暮らしていること。海のずっとずっと上には、島の中と同じように空気で満たされた空間が存在していて、千年以上前のヒトはそこで暮らしていたこと。海の上はとても高いところなので、たとえ島の一番上まで上ってもたどり着けないこと。これは全てリッツが母から聞いて知ったことだ。
 好奇心旺盛なリッツは、一所懸命に母の話へ耳を傾けた。そのうち聞いているだけでは満足できなくなり、本を読んでみずから知識を吸収するようになった。まだ学校に通うような年ではなかったため、文字の読み書きは母に教わった。おかげでリッツは同い年の子供たちに比べて読み書き能力が非常に高い。リッツは母に感謝していた。両親を喪い、生まれた島を離れ、一人ぼっちになった今、わずか10歳のリッツが仕事をして生きていけるのは母の教育のおかげだからだ。
 リッツは港で働いている。島の玄関口とも言うべきこの港はドーム状の空間になっており、丸い天井を見上げてみればドームの半分以上が島の外にせり出していることが分かる。ドームの頂点からリッツの立つ床面に至るまで、島の内側にあたる部分はくすんだクリーム色の壁が張られている。反対側の、島の外側へせり出した部分は透明な素材でできていた。島の外の世界、暗い海が透明な壁越しに見通せる。見通せる、と言っても実際にヒトの目で見ることができるのは島の灯りが届くわずかな範囲だけだ。あとはどこまでも続く暗い暗い世界が広がっている。ヒトが生きていけない外の世界だ。
 その暗い海をぼんやり眺めていると、黒一色であった世界にぽつりと一つ小さな光が灯った。リッツにとっては見慣れたその光はちらちらと揺れながら少しずつ港へ近付いてくる。リッツはそれを認めると自分の指定席へ向かった。
 港は島の玄関口であり、漁に出ていた船やよその島からやってきた船を迎え入れる場所である。海の中にいる船が港へ入るまでには、いくつかの水門をくぐらなければならない。水門は普段は一滴の水も通さぬようにぴったりと閉め切られており、港の管理人の指示によって開閉する。水門を経由させることにより、海の水が島の中に流れ込んでくるのを防いでいるのだ。もしも水門が壊れてしまったら、島の中は塩辛い水で満たされ、ヒトは生きていけなくなるのだという。
 トンネル状の水門をくぐった船は、港の床面の半分以上を占める大きなプールから水面へ顔を出す。100メートル以上ある大きなプールも、大型の船が到着すると途端に窮屈に見えるから不思議だ。プールの周囲はリッツの身長の3倍ほどある鉄格子に覆われている。正面に一箇所だけゲートが設けられていて、そこを通過しなければ船に近付くことはできない。ここは関所なのだ。
 リッツはゲートのすぐ傍に置かれた、大小の木箱を組み合わせて作った指定席に腰を下ろした。机の上には分厚い冊子と、インク壺と、ペンが一本。リッツの仕事とは、この港の入島・出島記録をつけることだった。
「おう、リツ坊。今日も朝早くからご苦労さん」
「わっ」
 大きな手にぐしゃぐしゃと頭を撫でまわされる。節くれだった硬い手の持ち主は、リッツにとっては見慣れた中年の大男だった。穿き古した分厚いズボンと穴の開いた薄手のシャツを着こみ、首にタオルを巻いている。港で働く大勢の男たちの一人だ。
「おはよう、フランクおじさん」
 驚いて身を縮めたリッツは、手の主を認識するとぱっと笑顔を浮かべた。フランクの頬もつられて緩む。また後でな、と手を振ってゲートの中へ入っていくフランクを見送り、リッツも小さく手を振り返す。もうそろそろ船が到着する時間だ。フランク以外にも十数人の男たちが次々とゲートをくぐり、口々にリッツへ声をかけていく。
「おはよう、リッツ」
「よう、チビ助」
 彼らはみなフランクの下で働く荷夫であり、リッツとは顔なじみだ。彼らの主な仕事は船荷の積み下ろしである。みな一様に体が大きく力持ちで、重たい荷物も軽々と運ぶことができる。そんな力自慢の男たちの中で、くせっ毛の赤毛と、エメラルド色の大きな瞳を持つ幼いリッツはみなに可愛がられていた。まだ子どもの彼が一所懸命に働く姿は皆の好感を誘うのだ。
 ドーム状の天井から、サイレンの音が降ってくる。壁に埋め込まれたランプが回転しながら赤く点灯する。水門が開く合図だ。リッツは指定席に腰かけたまま、横手にある大きなプールに目をやった。静かだった水面に小さな波が立ち、プールサイドにぱしゃりと水しぶきが上がる。リッツたちが足をつけている床のずっと下の方から水門の開く振動が伝わってくる。機械が唸りをあげている。リッツは最初にここへ来たとき、絵本に出てくるような怪物が現れるのかと怖がって泣いてしまった。少年としては忘れてしまいたい過去だ。
 波立つプールの中にぼんやりと黒い大きな影が浮かび上がる。影は見る見るうちにはっきりした姿を持ち、一際大きな波を伴って水上に躍り出た。ざばん、と床を叩いて砕けた波飛沫がリッツの足下にまで届く。船の到着だ。
 そこに現れたのは、千年以上前の世界で暮らしていた生き物、鯨だ。黒く大きな船体は丸みを帯びていて、この船が生き物の形を模して造られたのだということを実感させる。体の左右に一つずつ取り付けられたサーチライトは目の代わりなのだろう。腹部にはぽっかりと空洞があり、内臓や筋肉の代わりにそこへ人間や荷物を積み込むことができる。
 プールサイドに立った荷夫が両手を挙げて鯨を誘導する。水面に浮かんだ鯨はゆっくりとその巨体を近付け、ぶつかる寸前で静止した。胸びれのような形をした前足部分が開いていき、鯨の船内とプールサイドをつなぐブリッジになった。しばらく間を置いて、ブリッジの先で船内へと通じる扉が開く。中から人がぞろぞろと列になって出てきたのを確認し、リッツは視線を手元へ戻した。入島記録の最新のページを開き、インクを染み込ませたペンで一番上の行に今日の日付を書き込む。
 ゲートの向こうからフランクが戻ってきた。乱雑に積み上げている木箱を開け、黄ばんだ紙の束を取り出す。リッツの指定席の斜め前辺りに立ち、ぱらぱらと見るともなしに紙を繰っていく。この紙の束は、よその島で悪いことをした人間の似顔絵だ。悪い人を島へ入れないよう、似顔絵を手元に置いて一人一人の身元を確認しているのだ。リッツがこの仕事を任されるとき、そうやって説明を受けたのだが、実のところ説明されずともリッツには分かっていた。フランクの持つ紙に、大きく「指名手配犯」と書かれているのが彼には読めるからだ。フランクを始めとする港の人たちのほとんどはその文字を読むことができない。下層に暮らし肉体労働に従事する彼らには文字の読み書きを習う必要も機会もないのだ。
「始めるぞ。準備はいいか」
「うん」
 リッツがフランクの問いかけにうなずき、入島手続きが始まった。ゲートの前でずらりと列を作った人々が一人ずつフランクの質問に答えていく。名前、年齢、出身地、この島へ来た理由が必須項目だ。どこの島でも同じことを確認しているのだろう。問いかける方も答える方も慣れたもので、会話のペースは速い。リッツは彼らの受け答えを聞き漏らさないよう集中してペンを動かしていた。入島する人のほとんどはよその島から荷物を運んできた商売人であり、大多数が男だ。中には常連になっている者もいて、そういう人の受付は少し楽だ。名前や出身地は覚えている通りに書けばいいし、以前の記録を見返すこともできる。
 今日の入島は20人ほどで終わった。大型の鯨のわりに人数が少ない。荷物を運ぶのが主目的だったのだろう。実際、荷物の運び出しはまだ終わっていなかった。
「お疲れさん」
 フランクは指名手配の紙束を木箱へ戻すと、リッツに手を振ってゲートをくぐる。荷物の積み下ろしを手伝いに行くのだ。手伝いに行くというと語弊があるかもしれない。もともと彼はそちらが本業だ。リッツも記録書を閉じてペンとインクをしまい、さてどうしようかと港の方を眺めた。皆が忙しいのなら手伝いたいのはやまやまだが、リッツは体の大きさも力もまだまだ足りない子供で、力仕事では何の役にも立たない。むしろ邪魔になるだけだ。
 居住区へ帰ろうかと指定席から下りたリッツの耳に、ざわざわと騒がしい声が聞こえたのはその時だった。港の方を振り返ってみると、鯨のおなかに群がるように男たちが集まっている。
「密航だ!」
 リッツは目を瞬かせた。少し難しい言葉だが、その意味は知っている。許可証を持たずにこっそり鯨に乗り込んでよその島へ行くことだと以前教えてもらった。港の男たちが色めき立つのが分かる。人だかりがどんどん大きくなる。リッツも踵を返しそちらへ駆け出した。港で仕事をするようになってから、密航者が来たのは初めてだ。一体どんな奴なのか見てみたい。
 ゲートをくぐり、男たちの足下に潜り込むようにして、リッツは人だかりの中心を目指す。
「こら、リッツ!」
「ちょっと見るだけ!」
 見咎めた荷夫の一人に諌められたが、笑って誤魔化して鯨の前まで出ていった。港で働く男たちは、島の下層住人の中でも荒くれ者たちの集まりだ。悪事を働く輩には容赦しない。実際に今も何人かの男たちが鼻息も荒くブリッジを越えて鯨の中へ乗り込んでいったようだが、鯨の中は案外静かであった。どうしたんだ、何があった、とざわめきの中声があがるも、男たちは困惑した様子を見せるばかりである。そんな彼らを掻き分けてフランクが鯨の中に入っていき、しばらくして密航者と共にブリッジへ姿を現した。
 ぐったりと目を閉じフランクに抱えられている密航者は少年だった。年は15歳ぐらいだろうか、リッツよりは年上である。取り巻きの男たちからなんだ子供か、と声があがり、しらけた空気が広がった。気絶した子供を相手に暴れるわけにもいかない。男たちがぱらぱらと解散していく中、少年を抱えて歩き出したフランクの後にリッツが続いた。
「おじさん、その子どうするの」
「見捨てるわけにはいかんからな。医者へ連れて行こう」
「でもその子、密航者なんでしょ。悪いことしたのに捕まえないの」
「まだ子供だからなあ」
「でも」
 子供だって悪いことは悪いことだ、という言葉をリッツは飲み込んだ。密航者よりもっとずっと幼いリッツが今何を言ったところで、フランクは少年に対する態度を変えないだろうと、リッツには分かっていた。
 海の中に沈んだ人工島は巻貝のような形をしている。ゆるくカーブを描くその島の中は大きく上層、中層、下層の三つの領域に分かれており、それらの居住区に暮らす人々には明確な貧富の差があった。言わずもがな金持ちや権力者は上層に住み、貧乏人は下層に住む。学校や病院などの社会機能もそれぞれの層ごとに整備されており、人々が普段の生活で他の層へ足を踏み入れる機会は少ない。
 ただ、港だけは例外だった。100メートルもの大きさがある鯨を受け入れられる大きなドームや、海の水を島へ入れないための水門、鯨の運転手と連絡するための通信機器など、港には失われてしまった旧暦時代の技術がふんだんに使われている。各層ごとに別々の港を設けるというわけにはいかないのだ。そのため、港にだけは上層から下層まで全ての層の住人が集まってくる。乗客の多くは上層か中層の人間だ。荷夫として働くフランクたちやリッツは下層の人間であり、水門を開く機械を操作したり鯨と通信したりするのは中層の人間の仕事だ。
 密航者を抱えたフランクはまっすぐに下層への通路へ向かった。荷物置き場の影に隠れた両開きの扉を開けると、その先は下層に下りる薄暗く狭い螺旋階段になっている。足早に駆け下りていくフランクを必死に追いかけ、息を切らせたリッツが尋ねた。
「ねえ、港にも、お医者さん、いるでしょ」
「そんなの待っていられるか。密航者だのなんだのと取り調べられているうちに、凍死しちまう」
 語気を強めたフランクの迫力に、リッツはぎくりと足がすくみ転びそうになる。壁に手をつき体勢を整えてから、あっという間に距離を開けたフランクをもう一度追いかける。フランクの後ろにいるリッツからは少年の姿がほとんど見えない。見えているのはだらりと投げ出された足だけだ。靴も履かずむき出しになった両足はまるで蝋のように白く、生気が感じられない。リッツは強く唇を噛みしめ、置いて行かれないよう走ることに集中した。人が死ぬところを見るかもしれないと思うと恐ろしかったが、走るのを止めて見捨てたと思われるのがもっと怖かった。


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