第五夜 凍える待合室 --4



 次の日は一時間早くアパートへ向かった。また伊織が鍵を開けられずにいるかもしれないと思ったのだ。小学校の授業が何時ごろに終わるのかはよく分かっていなかったが、アパートに着いたときに伊織が来ていなければ、待っていればいい。
 着いてみれば伊織はもう来ていた。今日は座り込んではおらず、鍵穴に突き刺した鍵を一生懸命回そうとしている。やはり固いらしい。千恵は伊織に代わってドアの前に立ち鍵を握った。昨日開けたときのことを思い出しながらガチャガチャとやっていると、昨日より早く開けることができた。ドアを開けて、鍵を抜いて、伊織と一緒に部屋に入る。それからは昨日と全く同じだった。伊織は絵を描き千恵は勉強する。時間になったら徹が帰ってきて、伊織を送っていく。千恵はこの日も施設までついていった。明日は伊織と二人でここまで来なくてはいけないので、そのつもりで道を見ておきたかったのだ。
「明日は頼むな。早く帰れそうならそうするが」
 徹は駅まで送ってきて、別れ際にそう言った。スーツ姿のサラリーマンが行き来する中、千恵は黙って会釈する。彼はすぐにきびすを返そうとした。
「あ、あの、鍵はどうしたらいいですかっ」
「ああ」
 彼の背中を見た途端、聞かなければならないと思っていた質問を思い出した。慌てて呼びかけると徹もあっという顔で振り向く。
「忘れてた。そうだな、俺はスペアを持ってるから、郵便受けの中にでも放り込んでおいてくれ」
「わかりました」
 千恵がもう一度ぺこりと頭を下げる。徹はじゃあ、と言って去っていった。しばらく彼の背中を見送ってから千恵も帰路についた。
 そして次の日。手術当日になった。
 千恵はやはり学校に行かなかった。電話を入れるときに、そろそろ何か言われるのではないかと身構えたのだが、のんびりした事務員の声は風邪をひいたという彼女の欠席理由を全く疑う気配がなかった。ほっとして携帯の電源を落とし、ベッドから這い出て冬服に着替える。外は強い太陽の日差しに照らされているが、相変わらず彼女の中は冬なのだった。
 セーターに袖を通したとき、家の方の電話がけたたましい音を立てた。取る人は誰もいない。千恵は机の上の手帳をひっつかんで階段を下りていった。リビングの扉を乱暴に開けて電話の小さなディスプレイを確認する。携帯の番号だ。つまり学校からではない。手帳の住所録のページを開いて探していくと、その番号はすぐに見つかった。勝木先生、担任だ。
 電話の音が彼女を責め立てる。何コール待っても担任は諦めない。思考の停止した彼女の手から手帳が滑り落ち、床にぶつかってぱたぱたとページがめくれる。彼女は電話の乗った台をぐいっと引っ張り壁から離した。ほこりのたまったそこにはコンセントが三本刺さっている。一つ目は電話、二つ目が隣のファックス、三つ目は延長コードで夏は扇風機、冬は電気ストーブにつながる。彼女はどれがどれにつながっているのか確かめようともせず、三本を次々と引き抜いていった。三本目を引き抜いた瞬間電話が沈黙する。
 外で車の音がした。彼女の心臓がどきりと跳ねる。だがカーテンの隙間から覗いてみればそれは見慣れた車だった。看護士の中で一番古株のおばさんだ。彼女や弟がもっと小さかった頃にはよく遊んでもらった。丸っこい人の良い顔が車の中から現れる前に、彼女は自分の部屋へと逃げ帰った。
 次に車の音が耳に障ったのはお昼ごろだった。看護士たちの出勤はもう終わっているとはいえ、ここは病院なのだから患者が車でやってくることはよくある。それでも彼女は何か胸騒ぎを感じてカーテンの隙間から駐車場を見下ろし、そして自分の直感が正しかったことを知った。振り返って時計を見る。今はちょうど昼休みの時間だ。もう一度外を見る。駐車場に入ってきた車から、中肉中背というには少しお腹まわりが怪しくなってきた男が汗を拭きながら降りてきた。担任が来たのだ。とうとう保険医から話がされたのに違いない。彼女は一旦ベッドから出て部屋の鍵をかけ、布団の中に潜ることにした。
「千恵ちゃん? いるの?」
 彼女がベッドのところまで戻ったとき、例の古株のおばさんの声がした。
「……はい」
「風邪ひいたんだってね。大丈夫? 学校の先生が来てくださってるよ」
「大丈夫、です」
 かすれた声で返事をすると、扉の向こうから小さくこそこそと話し合っているらしい声が聞こえてきた。女性の声と男性の声。何と言っているのかは聞き取れないが、おばさんと担任だろう。
「千恵ちゃん、おばちゃんだけ部屋に入れてもらってもいいかな」
 だますつもりじゃないだろうな。千恵の頭に最初にそれが浮かんだ。だがいかに担任といえども女子高生の私室に無理矢理踏み込むことはしないだろう。彼女はドアの鍵を開けた。
「おお、須崎、顔色悪いな」
「ほんとに。具合が悪いんだったら遠慮せずに言ってくれたらよかったのに」
 ドアのすぐ前にはおばさんがいて、その後ろから担任がのぞきこんできた。おばさんはあんまりじろじろ見るなというように彼を振り返って視線を送る。千恵の部屋は見られて困るほど散らかってはいないのだが、もちろんそういう問題ではない。おばさんは千恵の手をとって、その冷たさに顔を曇らせた。
「熱はないみたいだね。ごはんは食べたの?」
 千恵は黙ってうなずく。おばさんの後ろで担任がものすごく何かを言いたそうにしていることには気付かないふりをした。
「あとで先生に診察してもらおうか。さあ、ありがとうね、顔を見せてくれて。もうしばらく、先生の手が空くまで寝ておいで」
「あ、すみません、ちょっと」
「はいはい、話は先生の方にお願いしますよ、あ、先生っていうのはうちの病院の先生のことね」
 おばさんは千恵の肩をとってベッドの方に向かわせる。担任が慌てて制止しようとするが、おばさんにあっさりといなされてしまった。千恵がぽかんとしている間に、部屋のドアが静かに閉められる。ドアの向こうではまた二人のひそひそ声が聞こえてきた。今度は少し声が大きくなっていて、会話の内容が聞き取れる。
「話をさせてほしいと言ったじゃないですか」
「具合が悪いって言ってる子を無理矢理引っ張り出せって言うんですか?」
「いや、だから……」
「家にいないかもしれないとかおっしゃるから、ちゃんと顔まで見せてもらったでしょう。もう充分じゃないですか」
「そういうことでは……」
「だいたい話だったら、まずは先生の方に……」
 二人の声はだんだん遠ざかっていった。階段を降りていったのだろう。千恵はぼうっと突っ立っていたが、しばらくして我に返り、音を立てないよう気をつけながらドアを開ける。二人の話し声が少し明瞭に聞こえるようになり、一階のドアを開閉する音が聞こえて、また聞こえなくなった。病院の方へ行ったのだろう。まだ昼休みが終わる時間ではない。
 千恵は本棚から適当にノートを一冊取り出し、真っ白なページをびりびりと破り取った。そこに「起こさないでください」と書き付け、部屋のドアに貼り付ける。財布だけをぱっと掴み忍び足で階下へ向かった。念のため、いつもあまり履かない靴を履いていくことにする。背伸びして買った大人っぽい黒のパンプスを取り出し、彼女は玄関のドアを開けた。


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