第五夜 凍える待合室 --2
「明日から俺、入院するんだ」
「え?」
思いもつかぬ発言に、千恵は空雄の顔をまじまじと見つめた。だんだんと明るくなる空を見上げる彼の顔はいつも通りの微笑みを浮かべている。千恵はどうして、と問う前に体をきちんと彼の方に向けた。それはいい加減な気持ちで聞きたくないという彼女の思いの現れだったのだが、肝心の空雄の方はぼんやりと空を流れる雲を目で追うばかりで、彼女の方を見ようとはしない。
「胃の中に良性の大きい腫瘍があってさ。このまま放っておくとガンになっちゃうかもしれないんだってさ。だから手術して取らなきゃいけないんだ。それで、ちょっとの間入院するの」
「……いつ」
「明日からだってば」
「手術の方よ」
「あ、そっちか。えーっと……入院して三日目だから、しあさってだね」
今日は火曜日であるので、明々後日ということは金曜日である。千恵は頭の中にカレンダーを思い浮かべて計算しようとしたのだが、今が何月何日何曜日なのかどうしても思い出すことができず諦めた。
「それで、お願いなんだけど」
空雄が顔だけを千恵の方に向ける。二人の視線がまっすぐぶつかったことに気付いた千恵はほんの少し目線を落とした。風にあおられてしわのついたシャツを着ている彼は、細身ではあるものの三日後に手術をするような病人には見えない。
「明日から俺がいなくなっても、伊織ちゃんはうちに遊びに来ると思うんだ。だからもしよかったら、あの子と一緒にいてあげてほしいんだよ」
「私が?」
「千恵ちゃんにしか頼めないんだ。徹は仕事があって遅くまで帰って来れないし。手術の後すぐに帰ってこれるならいいんだけどね。一部とはいえ胃袋が切り取られちゃうわけだから、退院までは結構かかるみたいでさ」
千恵の顔に困惑の表情が浮かぶのを見て、空雄は頭の後ろで組んでいた腕を解きゆるく膝を抱えた。
「覚えてるかな。前に言ったことがあるんだけど、千恵ちゃんは初対面から伊織ちゃんの目に映ったんだ」
千恵はうなずく。初めてこの屋上へ登ってきたときのことを思い出した。階段の途中で伊織と鉢合わせして、ものすごく脅えられて、声をかける間もなく逃げられた。そうは言っても、千恵の方に声をかける気はなかったのだが。
「目に映った、っていうのは文字通りの意味なんだ。あの子は俺と徹と、そして君しか見ようとしない。施設にいる他の子供たちも、先生たちもあの子の目には映らない。あの子とはずいぶん長い付き合いだけど、他人のいる方向にあの子の視線が向いたことは一度もない」
空雄の表情がいつしか真剣そのものになっていた。千恵は彼の言葉を頭の中で反芻する。一度では意味がよく分からなかった。そんなことがあるのだろうか?
「こうやって聞くと、どれだけすごいことか分かるかな。あの子に見られるってことがさ。しかも君の場合、初対面だからね。俺も徹もあの子の視界に入るまでに結構時間がかかって」
「でも」
思いの外大きな声が出た。
「あれは、偶然鉢合わせしただけで……見たくて見たんじゃないよ。それに、あの時以外で伊織ちゃんと目が合ったことは、たぶん、なかったと思うし……」
「そりゃ、目が合うことはないと思うよ。仲のいい人でも、そんなに目をまっすぐ見て会話したりはしないだろ? なんていうか、そういうことじゃないんだ。うまく説明できないけど、千恵ちゃんならお願いしても大丈夫だと思えるんだよ」
「でも……」
「あの子は千恵ちゃんの絵を描いた。それだって大きな変化なんだよ」
「……」
「あ、でも、できればでいいんだ。できればで。千恵ちゃんは学校もあるし、ここは結構家から遠いんでしょ? 暇でしょうがないときに、ちょっと顔を出してくれたらいいかなって思っただけだからさ」
空雄はどこか慌てているようだった。同時に千恵も、心の一部が妙に急いているのを感じていた。何か相手に伝えたいことがあるのにうまく口から出てこない。言葉になればそれは心の中とは違った意味を持っている。いったい自分は何が言いたいのだろう。
二人はふつりと口をつぐんだ。空雄はまた空を見上げる。千恵は彼から目を逸らして自分の膝を見るともなしに見る。忘れていた寒気がまた体を襲ってきて、思わずセーターの袖口を引っ張り指先を覆った。彼女の動作を空雄がちらりと見て、何かを言いかけて口を開く。
「千恵ちゃ――」
「ソラ」
屋上のドアががちゃ、と音を立てて開いた。そこに立っていたのは徹で、彼はジャケットを羽織りくたびれた皮のリュックを左肩にかけている。何事かと顔を上げた千恵と空雄の方を見ると、彼はズボンのポケットをごそごそと探り出した。
「仕事、行ってくる」
「もうそんな時間? わざわざここまで言いにきてくれたの?」
「ほら」
徹は空雄の質問に答えず、ズボンから取り出した小さな何かを彼に向かって放り投げる。徹の手を離れた瞬間、朝日にあたってそれがきらりと光った。空雄は両手を伸ばし、腰を少し浮かしてキャッチする。
「鍵、かけといたから」
空雄の手の中に入っていたのは、濃いピンク色の短いリボンを結んだ銀色の鍵だった。空雄はぽかんと口を開け、きびすを返しかけている徹の背中に慌てて抗議の声を上げる。
「ちょっ! こんなところで鍵なんて投げて、下に落ちたらどうするつもりだったんだよ!」
「知るか」
徹の返事はにべもない。彼はそのまま後ろ手にドアを閉めて去って行こうとしたが、ドアは閉まる直前になってもう一度半分ほど開いた。
「ソラ、準備しとけよ」
「分かってるよ。大丈夫」
一瞬、こちらを振り向いた徹の顔つきが少し険しくなったように見えたが、ドアがすぐに閉められてしまったので分からなくなってしまった。
「うーん。やっぱり機嫌悪いなあ」
空雄は投げ渡された鍵をくるくると弄びながら苦笑する。
「心配してくれてるんだ。腫瘍は良性だし、よくある手術みたいだから大丈夫だって言ってるんだけど」
呑気な物言いを聞きながら、千恵は密かに徹に同情した。いくら大丈夫だと言われても心配が尽きるはずはない。いつだってこういう時は周りの者が気をもむのだ。当人は気をもんだとて手術台に乗せられて眠ってしまえばあとは何も分からない。この目が二度と開かれないかもしれない、という恐怖を当人だけは味わうことがない。千恵は自分が苛立っていることに気付いた。周りの人間が感じる恐怖というのは、当人には訴えることのできない恐怖だ。誰だってあなたが死ぬのが怖いと泣きつかれたら困ってしまう。
「千恵ちゃんまで、そんな顔しないでよ」
千恵は下を向いて首を横に振った。「そんな顔」なんかしていない。きっと彼は何も分かっていない。
「さて、どうしようか。徹ももう出かけたし、千恵ちゃんも学校あるよね。その前に一旦家に帰る? なんなら送ってくよ」
空雄の声がぱっと明るくなった。その響きに今まで気付かなかった空虚さを確かに感じながら、千恵は黙ってうなずいた。