第四夜 しょっぱいケーキと少女の魔法 --6
伊織が帰ったのだから、自分もそろそろここを出なくてはいけない。千恵はそう考えながらも「帰る」と言い出せずにいた。両手で広げた伊織の絵を見ているように装って、空雄の様子をうかがい彼が口火を切るのを待っていた。
空雄は彼女の知らないメロディを鼻歌で歌い、何食わぬ顔で濡れた髪を拭いている。彼女はそれを見ながらこの家にはドライヤーがないのだと思った。冬場などはドライヤーでしっかり乾かさないと風邪をひいてしまうのではないだろうか。男の二人暮らしならば仕方のないことかもしれないが。そういえば、父親がドライヤーを使っているところは見たことがない。弟は子供のころ、一緒にお風呂に入っていたようなころには使っていたが、大きくなってからは使わなくなったような気がする。
彼女の髪はもうだいぶ乾いていた。少しだけ湿っているその感触を確かめるように耳にかかる横髪を撫でつける。そして寒気に背筋を震わせた。どういうわけか今まで忘れていたが、自然に乾燥させるとその分体から熱を奪われてしまうのだ。寒くないはずがない。そして彼女の震えに目ざとく気付いた空雄が心配そうに声をかけた。
「千恵ちゃん、寒い? なにか羽織るものでも」
「大丈夫、もう……帰るから」
衣装ケースの方を向いて立とうとする彼を制止する。千恵は彼が反論しないうちにと立ち上がり、窓の下の伊織の定位置に画用紙を戻した。画用紙の山は意外と微妙なバランスで積み重なっていたらしく、一番上にケーキの絵が乗ったとたんざらざらとなだれ落ちてきた。画用紙は真っ白なものもあれば既に色が塗られているものもある。一枚一枚拾い上げてみれば、それは実に豊かな色彩をもっていた。青、緑、オレンジ。絵自体はどちらかと言えばへたくそな方なのだが、あの伊織が描いたとは思えないほど鮮やかだ。そうかと思えば、たまに黒や茶色、紺色などのように暗い色が基調になったものもある。千恵は次々と画用紙をめくっていった。下の数枚は全部白紙で、もうないのだろうかと思っていたところ、もっとも下に灰色がちらりと見えた。
それを引き出して見た千恵は息を呑んだ。全体が灰色に塗りつぶされたその絵の真ん中には、人間らしきシルエットが見える。顔は描かれていない、というかこれはおそらく後ろ姿なのだろう。ショートカットで、スカートをはいているから女の子だ。よく見れば灰色の下に、わずかに黄緑色やオレンジ色などの明るい色も塗られている。だがそういう色があるところは、他の部分よりも強く灰色が上から重ねられていた。千恵は目を離すことができない。彼女の頭の中にあったある考えは、後ろからのぞき込んできた空雄の反応で確信に変わった。
「あ……」
彼は驚きと感嘆が入り交じった吐息を漏らし、言葉を失った。
この絵の女の子は千恵だ。
ぱたり、と涙が落ちた。
「……あ」
今度は千恵が声を漏らす。二滴目の涙は直接画用紙に落ちるのではなく、彼女の頬をゆっくりと伝った。泣いていることを自覚するとともに、涙は次々とあふれてきた。画用紙にぱたぱたと滴が落ちる。色鉛筆の色が少しにじんだ。
「う、っく」
喉の奥から震えがかけのぼってくる。彼女は両手で顔を覆い流れてくる涙を拭った。彼女の手を離れた画用紙が膝の上からひらりと床に落ちる。喉の震えを抑えることができない。空雄の温かい手が千恵の背中にそっと触れた。おずおずという感じではなく、小さな子供を寝かしつける母親のような手つきで彼女の背中をさすってやる。
それ以上はこらえきれず、彼女は背中を丸め声を上げて泣き崩れた。