第四夜 しょっぱいケーキと少女の魔法



 今が五月だとはとても思えないような暑さの中、教室は静まりかえっていた。まだクーラーをかけるような時期ではないので、生徒たちはみなうんざりした様子だ。男子は全員制服の上着を脱いでしまって椅子の背もたれにかけているし、女子はまだ夏服が許されていないため中間服であるブラウスとベスト姿だが、それぞれブラウスの袖をまくったり胸元のボタンを一つ多めに外して空気を遠そうとしていた。教室の窓は全て開け放たれているのだが、あいにく今日は風が吹いていない。熱にやる気を根こそぎ持って行かれた生徒たちは、半数ほどが机に突っ伏して夢の世界へ旅立っている。それに気付いていないのか、もしくは気付いていても気にしていないのか、教壇に立つ教師だけは元気である。若い数学教師は黒板にミミズのような文字を書き殴りながら、一人で中空にひたすらつばを飛ばし続けていた。
 窓辺の列の一番後ろに千恵の席はあった。クラスメイトが暑さに苦しむ中、彼女だけは相変わらず冬服の上からセーターを着込んでいる。昨日までは彼女の服装を注意する教師がたまにいたのだが、今日は誰も何も言わない。彼女が昨日職員室で倒れたことによって、どうも本当に体調が悪いらしいという認識が教師たちのあいだに広まったのだ。千恵の机の上には筆箱と一冊のノートが広げられているが、ノートには一文字も書かれてはいない。彼女は両腕で自分の体を抱きしめるようにして、うつむき縮こまっていた。
 隣の席に座った男子がたまにちらりと彼女に視線を向ける。クラスの生徒はもちろん彼女の異常に気付いていた。四月にはまだ、駄目だと言われてもセーターを着てくる生徒はいたためそれほど目立つことはなかったが、五月の連休明けともなれば気付かない者の方がおかしい。全体的に白くなった教室の中で彼女だけがぽつんと一人黒いのだ。この四月から同じクラスになったクラスメイトも、去年一年間同じクラスにいたクラスメイトも、彼女の身に起こっている不思議な事態を伝え聞いていた。一年生の冬休みまでは、彼女はよく笑う明るい普通の子だった。それなのに年が明けて学校に来た彼女は別人のようで、いつも暗い顔で自分の席に座っている。話しかけても反応が薄く、愛想笑いで返される。そして常に顔色が悪くとても寒そうにしている。季節が移り変わり冬から春になっても、春から夏になろうとしている今になっても、変わらず凍えそうな顔をしている、と。新学期になって一ヶ月が経ってもその状態から抜け出せない彼女を、クラスメイトはもう「そういうもの」として受け入れていた。彼女がどんな奇行をしたとしても、彼らはそれほど気にすることはない。彼女は「そういう子」だからだ。だから、たまに色の付いた視線が向けられる以外は、基本的に彼女にちょっかいを出そうとする者はいなかった。
 チャイムが鳴った。数学教師はほっとしてチョークを持った手を下ろす。眠りから覚めた級長が号令をかけ、生徒たちが起立し一礼する。数人の男子は挨拶もそこそこに教室を飛び出していった。女子のグループは一人の机の周りに集まってにぎやかにお喋りを始める。教室はざわざわと騒がしくなった。千恵は着席し、もとの姿勢に戻ってまた下を向く。
「あ、あの、ちょっといいかな、ちーちゃん」
 喧噪の中から弱い声が彼女を呼んだ。顔を上げてみると、くせっ毛を肩まで伸ばした気弱そうな女子生徒が目の前に立っている。彼女は千恵の中学からの友達だ。
「ね、本当に具合悪くないの? 無理しちゃダメだよ。辛いときに無理したら、余計に悪くなっちゃうよ。大変なのは分かるけど、無理は」
「ありがと、ミコちゃん。大丈夫だから、心配しないで」
 千恵は反射的に笑顔を作って、いつも通りの声を吐いた。ミコと呼ばれた女子生徒は悩ましげな顔をますます曇らせるが、それ以上何も言えずに黙ってしまう。千恵はさっと椅子から立ち上がった。
「私、先生に呼び出されてるんだ。ちょっと行ってくる」
「あ……うん、じゃあ」
 ひらひらとミコに手を振り、千恵は足早に教室を出ていく。彼女は、クラスメイトの半分ほどが二人の会話に耳を傾けていたのに気付いていた。自分に絡みついてくる興味の視線から逃れようと、廊下をほとんど走るように歩いて職員室へ向かう。
 担任に呼び出されていたのは本当だった。ただし、来いと言われたのは昼休みだ。今は三時間目が終わったところなのでまだ職員室へ行っても仕方がない。千恵は職員室のある棟へつながる渡り廊下の途中で立ち止まった。このままぼんやりと時間をつぶして、四時間目が始まってしばらくしてから教室へ戻ればいい、さも今まで担任と話していたかのような顔をして。だが彼女は教室へ戻りたくなかった。彼女はクラスの異物なのだ。そのことはちゃんと自覚していた。
 渡り廊下から内履きのまま直接中庭へ出る。きれいに刈り込まれた植木が素敵な散歩道を作り出していた。ここはいつも、奥の棟にある特別教室へ移動する生徒たちがショートカットとしてよく通る道だ。今はどこのクラスも移動していないのか、千恵以外に人はいない。彼女は足下に視線を落としコンクリートの灰色を見つめながらふらふらと足を進めた。
「須崎さん?」
 女性に声をかけられ、千恵はぴたりと足を止め顔を上げる。険しい表情で声のした方を睨んだ彼女はすぐに、中庭に面した窓から身を乗り出している保健医を見つけた。
「ああ、やっぱり須崎さん。大丈夫? 顔色悪いよ?」
 保健医は少し眉間にしわを寄せ、千恵に手招きをする。千恵は彼女から目を逸らし、数歩だけ校舎の方に近付いたがまた立ち止まった。すると保健医のまとう雰囲気がほんの少しだけ変化する。手招きのスピードがゆっくりになり、やがて止まった。千恵はコンクリートを見つめながら耳を澄ませて彼女の次の言葉を待つ。
「……寒いんでしょ。保健室で休んでいったら?」
 やけに力のない言葉だった。千恵ははいともいいえとも言わず、黙って校舎の方へ戻る。背中に保健医の視線が突き刺さった。


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