第一夜 四階建てのアパート --3



 伊織は誰よりも早くケーキを食べ始めたが、食べ終わるのは一番最後だった。初めのうちはぱくぱくと忙しく口を動かしていたものの、残り少なくなるにつれてスピードが落ちていったのだ。甘さに飽きたとかお腹がいっぱいになったとかいうわけではなく、食べ終えてしまうのがもったいなく思えたからだろう。その様子を空雄はただにこにこと笑いながら見守っていた。徹は最初に食べ終えて、「眠い」と一言だけこぼし床に寝転がってしまった。
 千恵は正直に言ってまったく食欲がなかったのだが、ケーキを頬張ってみると意外にまずいとは思わなかった。市販のスポンジはやわらかくクリームは甘い。イチゴは甘酸っぱい。だが、これはおいしいのだろうか、と彼女は心の中で首をかしげた。味がわからないわけではない。伊織は心なしか悲しそうに最後の一口を口に入れてしまうのをためらっていた。彼女は千恵が見ていることにも気付かずにじっとケーキと見つめあっている。千恵はその様子をしばらく観察してからちらりと空雄を見た。彼は相変わらずにこにこ笑って黙っている。
「……伊織、そろそろ食べろ。もう時間だ」
 そのとき、寝転がった徹がとても眠たそうにそう言った。伊織の表情が目に見えて暗くなる。フォークがふらふらと宙を動き、彼女の口に吸い込まれていった。ゆっくり時間をかけて飲み込み、フォークを置いて両手を合わせる。ごちそうさまでした、という声は聞こえなかったが空雄はお粗末さまでした、と答えた。
「まだ残ってるから、また明日ね。そんな悲しそうな顔しないの」
 優しく言い聞かせる空雄にこくこくと何度もうなずいてから、伊織はさきほど徹がかけたジャケットの隣に吊り下げられた上着を引っ張る。子供っぽいピンク色の古びた上着はところどころに小さくシミがついていた。ハンガーから外れて落ちたそれに袖を通し、チャックをしめる。空雄と徹も起き上がった。ソラは食器を手に取って流し台の方へ持っていき、徹は伊織と同じくジャケットを取って羽織る。千恵は空雄を手伝うことにして自分の分と徹の分の皿を手に取った。
「じゃあ、送ってくる」
 ひらりと片手を振って徹は玄関に向かい、しゃがんで靴を履く。その後に伊織が小走りで続き、玄関に行く途中で流し台の前に立つ空雄の服をぎゅっと掴んで引っ張った。
「おっと」
 空雄は引かれるままに玄関へとついていき、彼女が靴を履くのを待って頭を撫でてやった。
「また明日ね、伊織ちゃん。ケーキと待ってるからね」
 伊織は何も言わずこくりとうなずく。それから立って待っていた徹の手をそっと握り、一緒に玄関から出て行った。静かにドアが閉められて、彼が振り向く。ぼうっとして一部始終を眺めていた千恵は、いきなり空雄と目があってしまい反射的にうつむいた。だが空雄の方はまったく気にしていない。
「お、ありがとう。今洗っちゃうからさ、それも一緒に水につけちゃって」
 彼は袖まくりをして流し台に向かった。千恵は落ち着かなく視線をさまよわせる。この部屋の台所は小さなもので、彼女に手伝えることはなさそうなのだ。
 仕方なく飯台のところに戻って座っていることにする。鼻歌を歌いながら皿洗いを始めた空雄の後ろ姿を見ながら、千恵はどうやってここから出ようかと考えていた。
 彼は屋上で、千恵の予想していたようなことは一切言わなかった。馬鹿なことはやめろ、いい子だから戻っておいで、命を大切にしろ、どうしてこんなことをするんだ、云々。そういうことを言われていれば彼女もそれらしい回答をしていただろう。そしてすぐに彼を振り切って夜の街に逃げ戻っただろう。だがそうはならなかった。どんな仮面をかぶればいいのか迷っている隙に、千恵は空雄に捕まってしまったのだ。今更そんなことに気付いてももう遅い。せめて少しでも早く仮面をかぶれるようにここから逃げ出すべきだ。それ以外に彼女を守ってくれるものはないのだから。
「そういえば、千恵ちゃんここまで電車で来たの?」
 お皿をすすぐ手を止めて空雄が振り返った。一瞬だけ素直に頷くべきかどうか考えたが、制服を着ていることを思い出して頷く。千恵の通う高校はここから遠い。
「じゃあ駅まで送っていくよ。近道を知ってるし、もう遅い時間だもんね。今日が金曜日でよかった」
 千恵はもう一度頷き、空雄の鼻歌が再開された。


 アパートを出ると、空雄はさっそく近道らしい道に入っていった。数軒隣の建物のあいだの細い通路である。子供ならば楽々通れそうな道ではあるが、大人にはもう少し広さが欲しいところだ。千恵は肩にかけていたカバンを下ろした。高校生のボストンバッグは邪魔になるだろう。暗くて狭い道を空雄は迷いなく進んでいく。漫画でよくある裏路地のようなものだろうか、と思ったところ、すぐに広い道に出てしまった。だがそれで終わりではなく、広い道を横断した彼はまた建物と建物のあいだの道に吸い込まれていく。そんなことを数回繰り返したのち、古びて汚れた背の低い建物の前で彼は足を止めた。
「はい、着いた」
 駅は、と問おうとしてやめる。よく見れば目の前のその建物が駅なのだった。ここに来たときに出た出口ではないけれど、すりガラスの重たそうな扉の向こうにうっすら動く人影が見えている。
「千恵ちゃん、今日はつきあってくれてありがとう」
「……いえ」
「伊織ちゃんはおとなしい子だし、徹はあの通り無愛想だから気まずかったかもしれないけど、いつもあんな感じなんだ。だからあんまり気にしないで」
 千恵は頷いた。こちらこそありがとう、と言うタイミングを密かにはかる。だがどんな顔をして言ったらいいのか分からない。いつもはどういう風に言っていたのだろう。仮面をかぶっているならいくらでも言えるのだけど、仮面のないむき出しの自分はどのようにお礼を言えばいいのだろう。千恵はまごついて結局口を閉じてしまった。そんな彼女の葛藤に気付いているのかいないのか、空雄はにっこり笑って手を振る。
「じゃあ、気を付けてね。バイバイ」
 千恵にできたのは、無言で軽く頭を下げることだけだった。


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