窓の外には明るい日差しが降り注いでいた。連休前まではまだ冬のままのような丸裸の木が残っていたし、朝晩はそれなりに冷え込んでいたが、今はどの木も緑色の若葉を得意げに揺らしている。気温も上がり、まだ五月だというのが信じられないほどに暑い。今からこうでは夏になる頃にはどうなっているやら、考えただけでうんざりだ。
「おい、片岡。聞いているか」
 教壇に立った担任が、俺こと片岡昴を名指しする。俺は視線を教室の中へ戻した。今は帰りのホームルームの最中だが、あまり話は聞いていなかった。俺は頬杖をついていた手を膝に下ろしてそっと居住まいを正す。今年の担任は去年のやつに比べてそんなに怒りっぽくないが、変に目をつけられるのはごめんだ。
「あとで職員室に来るように」
 クラスの何人かが俺のほうをちらちらと振り返る。口元には皆そろって笑みが浮かんでいた。片岡、怒られてやんの。目がそう笑っている。呼び出しの理由はわかっている。話を聞いていなかったからではない。多分。俺はある悪戯をしたのだ。
 今日の放課後は用事があるのだが、無視して帰るわけにもいかないだろう。俺は仕方なく職員室へ寄っていくことにした。

「片岡、なんで呼ばれたか、分かってるか」
「はい」
 俺が即答すると、担任は軽くため息をついた。乱雑なデスクの引き出しから一枚のプリントを取り出し広げて見せる。プリントには進路希望調査票という文字と俺の名前が書かれていた。やっぱりこの件だった。
「先生は別に悪いとは思ってないが」
 担任の言葉は少し言い訳がましい。
「将来の夢を書けって言ってるんじゃないんだよ」
 分かってるよ。俺は言葉に出さず心の中でそう答えた。俺の進路希望調査票には第一希望から第三希望まで「宇宙飛行士」というふざけた文字が書いてある。ただの悪戯だ。本当になりたいなんて少しも思っていない。
「なりたいものがあるのは良いことだ。でもまずは高校生にならないとな」
 担任が俺の顔を見ている。少しばかり困惑しているんだろう。俺は別に真面目じゃないが、こういうふざけたことをするタイプでもない。何を考えているのか、悩みでもあるのか、こうして一対一で話して探ろうというのだろうが、残念ながら他意はない。ただ、書けと言われたから書いただけだ。
「まあ、まだ時間はあるから、ゆっくり考えてみなさい」
 担任はそう言って、白紙の進路希望調査票を一枚くれた。

 病院の敷地というのは学校に負けず劣らず緑が多い。入口のドアまでの短い歩道の周りにもツツジの低木が植えられ、その下にはプランターがびっしり並んでいる。プランターにはピンク色の細かい花が咲き乱れているが、何という花かは知らない。手入れが大変そうだと思いながら歩道を通り過ぎていく。別に花も緑も好きでも嫌いでもない。だが、仮にこの病院に一本の草も生えていなかったら、さぞかし辛気臭い場所になるだろう。
 受付で手続きをして病棟へと向かう。幼なじみがこの大病院に転院してからもう半年が過ぎようとしている。病室がたまたま一階だということもあり道順はすぐに覚えた。総合受付や診療室のある棟とは違い、入院患者と見舞客しか出入りしないこちらの棟はとても静かだ。廊下に面した窓からは中庭がよく見える。芝生の敷かれたそこでは患者衣を着た子供たちが元気そうに走り回っていた。
「すーくん、遅ーい」
 102号室の扉を開けると、不満げな声が耳に飛び込んできた。ベッドの中から細田皐月がパジャマ姿で口をとがらせている。俺と皐月は家が隣同士で、赤ん坊の頃から幼なじみだ。「すーくん」なんて呼ばれているが、それは小さい頃の親の呼び方をこいつが真似たまま改めないだけで、別に恋人関係だとかそういう訳ではない。流石に中学三年生にもなって「すーくん」はないと思う。
「これ買ってきたんだよ」
 駅前の大きなスーパーで買った、お見舞いでよくある果物カゴを持ち上げて見せると、皐月はきゃっと歓声を上げた。
「すごい! どうしたのこれ」
「うちの母ちゃんから。また手術するって聞いたから、応援のつもりだって。本当は自分で持っていきたいけど、仕事があるからって」
「すっごく嬉しい! おばさんにありがとうって伝えておいてね」
 皐月が手を伸ばす。俺はずっしりと重いカゴを渡そうとして、ふとためらいを覚えた。がりがりに痩せ細った皐月の手では支えられないのではないか。毎週見ているはずなのに、また少し細くなっているような気がする。そういえば、一昨年死んだじいちゃんの手もあんな風に肉が落ちていったっけ。俺は皐月の手に気付かなかったふりをして、ベッド脇のキャビネットの上にカゴを乗せた。
「ね、ね、アレ、持ってきてくれた?」
 見舞客用の丸椅子を引き寄せて腰を下ろすと、皐月は待ちきれないという様子で身を乗り出してくる。
「アレってなんだよ」
「進路調査票! あたしの分!」
 ああ、と声が漏れた。確かに、先週ここへ来たのはそれが配られた日だった。俺はうっかり口を滑らせたのだ。皐月はいいなー、あたしも書きたい、なんてうそぶいていたが、まさか本気だったのか。
 俺は通学鞄から進路希望調査票を取り出して皐月に渡した。
「すーくんはなんて書いたの?」
 用紙を見ながら何気なく質問する皐月に、俺は一瞬答えることができなかった。
「……宇宙飛行士」
「うそ。ほんとに書いたの?」
「なれって言ったのはお前だろ」
「そうだけど。ほんとになってくれるの?」
 皐月はなぜか嬉しそうだ。俺は顔をしかめた。
「……なんで宇宙飛行士なんだよ。お前、星とか好きだったっけ」
「別に、そうじゃないけど」
 皐月は俺から目を逸らした。先週この調査票を見られたとき、志望校が全く決まっていない俺に、こいつは「あたしのために宇宙飛行士になってよ」と言ったのだ。またくだらない冗談を言い出したと思ったが、皐月は真顔だった。それで俺はつい真意を聞きそびれた挙句、血迷ってこいつの言う通りに書いて提出してしまったのだ。白紙で出すよりは何か書いておいた方がマシかなんて思ったのだが、冷静に考えれば、白紙で出した方が何倍もマシだった。
「人は死んだら星になるっていうじゃん」
 余計なことを聞いてしまった、と思った。窓から空を見上げる皐月の表情が読めない。
「だから、あたしが星になったら、すーくんは宇宙飛行士になって会いに来てよね」
 俺は答えなかった。皐月は気にしていないのか、聞いてもいないことをぺらぺらと喋り続ける。
「あたしが星になったら、名前はキンモク星がいいな。皐月の『サ』の字って、金木犀の『セイ』って字にちょっとだけ似てるし。それに金木犀ってとってもいい匂いだし。すーくんみたいに星の名前だったら選択の余地はなさそうだけどね。知ってる? 昴っていうのは、おうし座のプレアデス星団のことなんだよ」
 一応、自分の名前のことなのだから、それくらいは知っている。とは言え別段星やら宇宙やらに興味があるわけではない。俺は宇宙飛行士になんかなれない。宇宙飛行士なんてものは、宇宙に行きたくてたまらない人が血のにじむような努力をして、それでもごくわずかな人しかなれない職業だ。俺にはとてもできない。
 それに、仮に宇宙飛行士になったとしても、今の人類の技術では太陽系の外にさえ行けやしない。そのキンモク星とやらがどれくらいの位置のつもりなんだか知らないが、俺には一生かかっても辿り着けやしない。星と星は地球から見ればすぐ隣にあるように見えても、実は何億光年も離れた場所にあるという。広い広い宇宙でこいつはたった一人になるのだ。
 死ぬってつまりそういうことなんだろうか。
「すーくん?」
 押し黙った俺の顔を不審げに皐月が覗き込んでくる。俺は肩をすくめて見せた。
「金木犀って言ったら、トイレの芳香剤の匂いじゃん」
「あっ、ひどーい」
 皐月はくすくす笑って、進路希望調査票を俺に手渡した。
「ねえ、東高にしようよ」
「東高?」
 東高といえば近くの県立高校だ。偏差値は具体的には知らないが、それほど高くないはずだ。志望校にするなら現実的な案だろう。
「あたしちゃんと勉強してるから、きっとすーくんと成績そんなに変わらないよ。ね、一緒に東高行こうよ。あそこの女子の制服すっごく可愛いんだよ」
 一緒に。
「そうだな、考えとく」
 俺は受け取った進路希望調査票をそそくさと鞄にしまった。

 病院を出ると西の空が真っ赤に染まっていた。星はまだ出ていない。まだ出ていない、というのは一般的な表現だと思うが、実のところ少し変な言い方だ。だって星は出たり引っ込んだりするものじゃない。太陽が眩しくて見えなくなっているだけで、昼間にも星は存在しているのだ。だが、まあ、夜だって似たようなものかもしれない。地上の電灯やらなんやらが眩しくて、結局ほとんどの星の光は俺たちの目には届かない。俺はおうし座のプレアデス星団を実際に見たことがない。いくつも名前を持っているような有名な星だから、きちんと時間や方角を調べれば町中でも見られるだろうか。キンモク星はどうだろうか。
 家に着き、鍵を開けて暗い部屋へ入る。父ちゃんも母ちゃんもまだ仕事だ。台所の電気を点けると、テーブルの上には珍しく何も置かれていなかった。母ちゃんは手作り料理至上主義だから、どんなに忙しい日でも夕飯を作っていってくれる。ありがたい話だが、毎日のことじゃないんだから、忙しい日ぐらいコンビニ弁当だって全然構わないんだけどなと常々思っていた。ついに宗旨替えしたのだろうか。
 俺の部屋に入ると、机の上にメモと封筒が置いてあった。メモには走り書きで「ゴメン。今日は買って食べて!」と書いてある。封筒にはなんと、五千円札が一枚入っていた。お年玉かよ。コレ全部使ったら怒られるかな。まあ怒られるだろうな。
 ふと閃いたことがあった。本棚から埃をかぶったポスト型の赤い貯金箱を手に取る。これは叩き割らないと中身が出せないタイプじゃなく、底にキャップがついていて簡単に出し入れできるタイプだから、それほどお金は貯まっていない。それでも財布の中よりは貯まっている。
 俺は急に重たくなった財布をポケットに突っ込み、家を出た。

 夜の病院というと不気味そうに聞こえるが、実際に見てみると電気が点いている部屋も多く案外明るかった。もう外来の診察は終わっているが、入院患者もまだ寝る時間じゃないし、医者や看護師もまだ働いているんだろう。
 俺は入口の門をくぐり、歩道を避けて前庭の芝生を突っ切り皐月の病室を目指した。面会時間はもう終わっているから、誰かに見咎められたら追い出されるかもしれない。
 幸い、目当ての部屋の窓の下に来るまで、誰にも見つかることはなかった。皐月の病室はカーテンが閉まっているが、まだ電気が点いている。良かった。俺は窓の下の花壇のブロックに上り、窓をノックした。返事はない。
 もう一度ノックするが、やはり返事がない。俺は少し不安になってきた。聞こえていないのだろうか。それともトイレに行っているだけか。もっと大きく叩かないと駄目だろうか。それで不審者と間違われたらどうしようか。
 とりあえずもう一度ノックしてみようと手を伸ばしたとき、カーテンが少し揺れた。思わず手を止める。少し間を置いて、カーテンの隙間から皐月が顔を出した。ひどく怯えた顔で庭の暗闇を見回している。俺が手を振って見せると、やっと俺の存在に気付いたようでぽかんと間抜けに口を開けた。からりと窓が開く。
「すーくん! びっくりしたよ。どうしたの?」
「ちょっと離れてろ」
 皐月はおとなしく窓から一歩下がった。俺は窓枠に手をかけ、花壇のブロックから飛び上がるようにして何とか窓によじ登る。思っていたより窓の位置が高かったが、ぎりぎり侵入できる高さで助かった。服は汚れてしまったが。
「どうしたの?」
 ベッドに座った皐月が改めて聞いてくる。俺は黙って、背負っていたリュックを下ろした。興味津々の皐月の視線を感じながら中身を取り出し、買ってきたそれの封を開ける。
「なにそれ!」
 皐月のそれは疑問ではなく歓声だ。夜空をイメージした紺色の箱には「planetarium」の文字がくっきりと印刷されている。箱を開けると、中にはバレーボールより二回りほど小さい銀色の球が入っていた。包装をはがし、スタンドを立て、取り付けていく。皐月が横でそわそわしているのが見なくても分かった。
「コンセントあるか」
「うん!」
 最後に電源プラグを差して準備完了だ。俺はカーテンを閉め、部屋の電気を消す前に皐月をベッドの中へ戻らせた。こいつは何かと危なっかしいから。
 電気を消しても部屋の中はぼんやりと見えた。病院のカーテンだし、遮光じゃないんだろう。本当は真っ暗な方がいいんだが、仕方ない。俺はプラネタリウムのスイッチを入れた。
「わあ……!」
 天井に映し出されたのは、それこそプラネタリウムでしか見たことのない量の星たちだった。天の川もはっきりと分かる。プレアデス星団も多分どこかにあるんだろう。
 皐月は何も言わず、じっと星を見上げた。こいつには星の名前が分かっているのだろうか。これだけたくさんの星があったら、たとえ知っていたとしても、どれがその星なのか見分けがつかないだろう。昔の人はどうやって星を見分けていたんだろうか。現代っ子の俺たちにはこれだけの星空はもはやファンタジーだ。だが、本来の夜空とはこういうものなのだ。宇宙は広い。これだけの星が存在して、まだ全てではないのだから。
 そう、これがすべてではない。それにただの子供だましだ。それでも今の俺にはこれが精一杯なのだ。
「宇宙飛行士」
「ん?」
「宇宙飛行士になんか、ならなくたって、いいだろ」
 俺は皐月のベッドに背を向けて星を見上げた。
「宇宙なんてこうすりゃ狭いもんだ。踏み台でも持って来れば手だって届く。2メートルぐらいしかないんだから」
「ふふ」
 皐月が声を立てて笑った。ごそごそと動く音がしたが、俺は振り向かなかった。背中に華奢な手が触れ、痩せた腕に抱きしめられる。
「すーくんは、すごいね。天才だね。あたしのお願い何でもかなえてくれるもん」
「そうだよ」
 何が天才だ。漫画にあるような何でも治せる名医になって病気を治したり、有名な野球選手になってホームランを打って手術を受ける勇気を与えたり、そういう凄いことができる人が天才って言うんだ。
 俺にできることは何でもする。でも、できることなんか、ほとんどないんだ。
「なあ」
「ん?」
「俺、東高に行く」
 皐月は俺の耳元で小さく「うん」と頷いた。
「一緒に行くんだろ」
「うん」
「制服着るんだろ」
「うん」
「絶対、約束だぞ」
「うん」
 来年の春。あと一年後。桜が咲く頃には入学式だ。新しい制服に身を包んで、春の眩しい日差しの中、俺と皐月は並んで立っていられるだろうか。
 部屋が暗くて良かった。きっと俺は誰にも見せられないひどい顔をしているだろう。
 だから、もう少し、この星空を二人で見ていよう。
 いつか夜明けが来るまで。


Fin.



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