03 白ウサギを追いかけて --3



『アリス、遅刻しちゃうよ』
 わたしの背後に現れたのは白いウサギのマリオネットでした。緑色の服を着て、懐中時計を首から提げているその様子はまさに不思議の国のアリスに登場する白ウサギそのままです。手すりの上に腰掛けているウサギの後ろにはただ何もない空間があるのみで、マリオネットを操っているはずの人間はそこにはいません。わたしは直感的にまずい、と思いました。アリスを連れてテラスから部屋へ戻ろうと思うのですが、足がうまく動いてくれません。
『アリスが追いかけてきてくれないと、お話は始まらない』
 ウサギはわたしのしようとしていることに気付いたのでしょうか、そう言って含みのある笑みを浮かべました。そして驚くべきことが起こりました。なんとアリスの姿が瞬きをする間に消えてしまったのです!わたしは慌てて辺りを見回してアリスを探し、使用人たちに屋敷中を探させましたが、とうとう彼女はどこにも見つけられませんでした。




 私は白ウサギを追いかけて、屋敷の中を走り回っていた。けっこう走ったと思うのだけれど、いまだに誰の姿も見ていない。どれだけこの屋敷が広いといっても、さすがにおかしいのではないだろうか。偶然ではないと思う。だって姿が見えないだけじゃなく、なんだか人の気配がしないもの。
 白ウサギについて角を曲がると、分かれ道のないまっすぐな廊下に出た。私は足を止めて乱れた呼吸を整えようとする。走り疲れてしまった。
 だがウサギは私の事情を慮ってくれる気はないらしく私が足を止めている間も止まろうとはしない。顔だけをこちらに向けて同じ速さでぴょんぴょんと跳ねるように進んでいく。
「待って……」
 すがるような思いで声をかけるものの、聞こえた様子はない。諦めて後を追い走り出すと、ちょうどそれと同時にウサギが立ち止まった。
「?」
 これ幸いと足を緩めて歩いていく。ウサギは何の変哲もない一つのドアの前で立ち止まっていた。赤いガラスの瞳がドアノブをじっと見上げている。
「ウサギさん?」
『遅刻しちゃう』
「……あなたはマスターのところへ向かっているのよね?」
『遅刻しちゃう』
「うん、分かったわ。遅刻するのは分かったんだけれど、何に遅刻するの? 教えてくれない?」
『遅刻しちゃうよ』
「……」
 埒が明かない。私がマリオネットのままだったら会話することもできたかもしれないけど、人間になってしまった今ではウサギが発する言葉しか理解することができない。このウサギも本当はちょっと前までの私みたいに、人間に伝えることのできない思いをたくさん心の中に抱えていることだろう。
 ウサギと話すのは無理だと分かり、私はとにかくウサギが選んだこのドアを開けてみることにした。ドアノブに手をかける私に気付いたのかウサギは私の足元で一回飛び跳ねた。ドアの向こうは薄暗い廊下で、小さなランプが照明器具として間隔を空けて床に設置されている。どこか見たことのある場所だと思って立ち尽くす私を追い越して、ウサギは迷うことなく薄暗い廊下に滑り込んでいった。だが私はその後を追う必要はなかった。ウサギが進んでいったのは廊下の奥に見える小さくて古めかしい扉だったのだが、ウサギがあと二跳びで(両足を揃えて跳ねているので、二歩というのはおかしいような気がした)扉に辿りつこうかというときになって彼は足を止めたのだ。そして私は思い出した。ここはランさんに引っ張られて歩いた廊下だ。そしてその部屋は。
「ウサギさん、そこはマリオネットがたくさん閉じ込められている部屋ですよ」
 ウサギは振り向かない。私はマスターや他の人たちが言うことを理解できたから、ウサギも私の言うことを理解できるのじゃないかと思うのだけど、どうなんだろう。たとえ理解できていても、こう一方通行のコミュニケーションでは確認のしようがない。こんな風に、いくら話しかけても反応が返ってこないのを分かっていながら、マスターは私に話しかけていてくれたんだ。そう考えると胸の奥が痛んだ。マスターに会いたい。
『アリス』
 気付けばウサギは私の後ろに回っている。声をかけられた私は驚いて振り返った。わざわざドアを開けてここまで来たのに、マリオネットの部屋には入らないのだろうか。まあ、入ったとしても、ウサギのマリオネットが他のマリオネットを抱えたり運んだりすることはできないだろうが。
「マリオネットを連れ出しに来たんじゃ、ないんですか?」
 この質問には何も答えずに、ウサギはくるりと方向転換してまたもとの廊下に戻っていく。私はマリオネットをさらっていくべきか少しの間迷ったけど、そうしていたらおそらくウサギは私を置いていってしまうだろうと思いやめにした。少し心が痛むけれど。ウサギを追いかけて走っていくと、ホールのような玄関に辿りついた。やっと外に出れると思い少し安心する。
 でも、おかしい。この広い玄関ホールに、メイドさんが一人もいないのはまだいいとして、警備員さんまでいないというのはどういうことだろう。私一人を探すのに警備員さんまで動かしているわけはないだろうし、もしそうだとしてもこれだけ屋敷の中を走っている間に誰かに見つかるはずだ。一体何が起こっているのだろう?

 屋敷の中と同じように、バラの庭にも人影はなかった。私は白ウサギを追いかけて、なぜか半開きになっていた裏門から外の世界へと走り出す。いつの間にか夕日が傾いており街は薄暗くなっている。そして街の中にも人の姿はなかった。街灯には暖かい光が灯っていて、辺りの家にも灯りが点いているのが見える。そのおかげで白ウサギを見失わずにすんでいるのだ。もうだいぶ走っているので私の体力は限界で、ウサギとの距離は離れる一方なのだ。不思議の国のアリスに登場するウサギが黒いウサギではなくて本当によかった。黒い毛並みは闇に紛れてしまうが、白い毛並みは闇の中でも少しの光を反射し映える。
 私は少しの間立ち止まって息を整えて、また走り出した。あのウサギは文字通り、真っ暗闇の中で見つけた小さな光。マスターへの手がかりなのだ。見失うわけにはいかない。そう意気込んだのはいいのだが、屋敷の近くとは勝手が違ってきていた。あの辺りではキャロルさんの屋敷ほどではないにしろ近くにある家はどれも大きく、ウサギが角を曲がってからしばらくその外壁に合わせてまっすぐ進んでくれるので距離が開いていても追いかけるのが簡単だったのだ。だんだんと周りの家が小さくなっていくに従って、ウサギが角を曲がるのが頻繁になっていき、私が角を曲がるとウサギは既に次の角を曲がってしまっている、というような状況が起こるようになった。そうなればウサギを追いかけるのは簡単ではない。私は何度か違う道を行っては戻り行っては戻りを繰り返して、そのうち完全にウサギを見失ってしまったのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……マスター……」
 言ったそばからせっかくの手がかりを失ってしまい、涙がこぼれそうになる。それを必死にこらえながら、私はどうにかマスターのもとへ行ける方法を考えようと頭をひねった。まず、白ウサギを追いかけてここまで来たのだから、アリスのお話の通りにしてみればいいのかもしれない。お話でもアリスは途中でウサギに置いていかれてしまったのだから。私はアリスだけれど、マリオネットだから動くのも話すのも全部代わりに人間にやってもらっていた。だから自分が主人公のくせに、ウサギとはぐれた後のアリスが何をしたのか思い出すのに時間がかかってしまった。それだけでもなんだか気分が沈んだけれど、思い出した内容が更に私の気持ちを落ち込ませた。ウサギとはぐれたアリスは、「ワタシヲオノミ」というラベルの貼られたビンの中の液体を飲んで体がどんどん小さくなっていくのだ。いくらなんでもそんなことがお話の外で実際に起こるわけがない。じゃあ一体どうしたらいいのか。
 いくら考えても結論は出てこない。深いため息を一つついて肩を落とした私の耳に、春の風みたいな声が届いた。

「君はそこで、何をしているんだい」




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