エピローグ



 街の中を馬車が駆け抜け、キャロルさんのお屋敷の門前で慌ただしく止まる。門のところにはランさんと、私と同い年くらいの女の子と、それより五、六歳年上に見える女の人が立っていた。ランさんは馬車に近付いてきて、地面に下りようとする私に手を貸してくれる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。家はちゃんと分かったみたいだな」
「はい、家族のみなさんがすごく嬉しそうでしたよ。ランさんも今からお送りですか?」
「ああ」
 御者さんが馬車から降りてきて、女の人たちの手荷物を積み始めた。それほど大荷物でもないのですぐに積み終わり、今度は彼女たちが乗り込んでいく。年長の方の女性とすれ違ったとき、私は彼女の目元が赤くなっているのに気付いた。見なかったことにして軽く会釈をし、お屋敷の方へ向かう。歩き始めると背後からランさんの声に呼ばれた。
「シェナ! キャロが探してたから、ちょっと行ってやってくれ」
「はーい」
 振り向いて返事をする。彼はそれも待たずに馬車に乗り込み、ひらりと一回だけ手を振って見せた。私も少しだけ手を振って、去っていく馬車をしばらく見送った。

 今日は玄関の大きな門が開いている。門番さんたちに会釈して玄関ホールに入ると、そこは大勢のお客さんでごった返していた。年齢も服装もさまざまな人々はみな熱気にあてられたように浮かれて騒いでいる。あちらでは幼い少年がその母親らしき女性に抱きしめられている。こちらでは年若い男女とよちよち歩きの赤ちゃんがひとかたまりになって抱き合っている。
 彼らはマリオネットから人間に戻ることのできた人たちだ。私がチャーリー君と話をした次の朝、目覚めると私の体は何事もなかったかのように人間に戻っていた。そしてマリオネットが集められていた部屋は大変なことになっていた。一晩のうちに、ほとんど全員が突然人間に戻ったのだ。さすがにあの大量のマリオネット全てが人間だったわけではやはりなかったのだが、それでもあの狭い廊下のような部屋に入るには大人数であった。しかもあの部屋は真っ暗なのだ。何が起こったのか、自分は何者なのかすらすぐには思い出せない彼らは暗闇の中パニックに陥った。
 それから数日はあっと言う間に過ぎた。軽く怪我をしている人の手当てに、精神が不安定になっている人のケア、それに彼らがどこに住んでいたのか、家族はいるのか、どう連絡するか、どこへ送り届けるべきかというようなことを調べることも必要だった。今は、連絡のついた家族の人たちがたくさん訪ねてきて、感動の再会をしているのだ。
「キャロルさん」
「あら、お帰りなさい。疲れたでしょう、シェナ」
 玄関ホールの隅に小さなテーブルセットを置いて、キャロルさんは微笑みながら人々を眺めていた。テーブルの上には紅茶の入ったテーカップが置かれているが、あまり口がつけられておらずすっかり冷めてしまっている。私の視線をたどったキャロルさんが嬉しそうに笑った。
「ふふふ、せっかくお茶を用意してもらったのに、飲む間がありませんのよ。みなさんお帰りになる前に、ご丁寧に長々と挨拶をしていってくださるの」
「そうなんですか、大変そうですね。休まなくて大丈夫ですか?」
「大丈夫ですわ。あなたこそ休憩なさい、駅まで五回も往復したのですから」
「そうします」
 頷いて去ろうとしたときにランさんに言われたことを思い出す。
「キャロルさん、忘れるとこでした。私のこと探してたそうですけど、何かお手伝いすることがあるんじゃ……」
「え? ああ、わたしも忘れていましたわ。大したことではありませんの。お部屋に戻る前に、チャーリーのところへ寄ってあげてください」
「……わかりました」
 チャーリー、と言われた瞬間思い浮かんだのはマリオネットのジュニアの方だったが、おそらく彼女が言ったのはマスターの方だろう。やっぱり彼と直結する名前はチャーリーではなくマスターなのだ。ただ、マスターと呼ぶと、彼はとても悲しそうな表情をするので呼ばないことにしたのだけれど。
 マスターは悪い人ではないと証明されたので、縄を解かれて日の当たる部屋を一つ与えられた。彼はもうだいぶ年なのに、チャーリー君によって無理矢理動かされていたため体にかなりの負担がかかっていた。しばらくはお屋敷で静養することになったのだ。
 そのマスターの部屋のドアをノックすると、中から優しい声でどうぞと返事があった。それだけのことなのになんだか嬉しくて、自然と口元がほころぶ。ドアを開けるとマスターは日光の差し込む窓辺でソファにゆったりと腰掛けていた。服の裾から手足に巻かれた包帯が少し見えているのは痛々しいが、穏やかな雰囲気でにこにこと笑っている。私はじんわりと胸の中があたたかくなるのを感じた。こんにちは、と挨拶をしようとした私の目にとあるものが飛び込んでくる。
「あっ、もしかして!」
 白いレースのテーブルクロスがかかったローテーブルの上に、チャーリー君がちょこんと座らされていた。木でできた手足は磨かれ、服も新しい布で縫ったものを着ている。切れていた糸もちゃんとつながっているようだ。黄色いリボンが胸元を飾っている、これは彼を捕まえたときに私が拾ったものだ。
「なおったんですか?」
「そうじゃよ。これでちゃんと動くじゃろう」
 チャーリー君をそっと持ち上げてみる。心なしか以前より明るい表情になったような気がするが、考えすぎだろうか。でもきっと彼は喜んでいる。そうでないはずがないのだ。
「しかし、かわいそうなことをしたのう。一生懸命に作った思い出がなつかしくて、修理をしてしまうのが妙にもったいない気がしていたのじゃが、まさかこんなことになるとは」
「おじいさん……」
 マスターの表情にふと陰りが落ちる。私はチャーリー君をテーブルの上に戻して胸の前で両手を組んだ。
「おじいさん、チャーリー君を嫌いにならないであげてください。確かにひどいことをしちゃいましたけど、でも」
「わかっておるよ。この子が寂しがっていることに気付かなかったのが悪いんじゃ。嫌いになどなるものかね」
 優しい答えにほっとする。マスターはソファから少し身を乗り出して、チャーリー君を持ち上げて慈愛に満ちた目で眺めた。本当は、マスターはずっと昔からこういう風にチャーリー君のことを大切に見ていたのだろうと思う。ただ、彼はあまりにもマリオネットとして動かしてもらうことにこだわりすぎたのだ。そのことばかり考えていて、マスターの優しい瞳を見ていなかった。今は、ちゃんと見ているだろうか。
 マスターがふと、ベッドの横の棚に置かれた小さな置き時計に目をやった。時計の針は二時を指している。彼はおやっと驚いた顔になって私を見た。
「シェナ、行かなくていいのかい?」
「え、どこにですか?」
「もちろんルノのところじゃ。見送ってやる方がいいと思うがのう」
「見送るって……?」
 マスターは戸惑った様子で少し視線を泳がせる。なんだか嫌な予感がした。ルノさんは私やランさんみたいに、家族と再会して故郷に帰っていく人たちを駅まで送っているはずだ。彼は見送る人であって、見送られる人ではない。
「おや? ルノは今日出発すると言っていたぞ」
「どこに行くんですか?」
「ニーナを探しに行くそうじゃ。どこに行くのかは聞いておらんが、しばらくは戻ってこないと言っておった」
 私はぽかんと口を開けた。そんなことは初耳だ。ランさんもキャロルさんもそんなことは言っていなかったではないか。マスターが私の顔を見て首を傾げる。
「おかしいのう。確かにさっき、別れの挨拶に来てくれたぞ」
「そんな、私、知らないですよ。いつ出発か分かりますか?」
「二時、ちょうど今じゃよ」
 私はもう一度時計を見て、二時を少し過ぎてしまっていることを確認し動揺する。ルノさんは本当に行ってしまったのだろうか。慌てて窓に駆け寄り、外に身を乗り出して彼の姿を探す。こちらの窓が面しているのはお屋敷の裏側の方だが、裏口のあたりに小振りな馬車が一台停まっているのが見えた。
「ごめんなさい、私ちょっと行ってきます!」
 間違いなくあれだ。直感でそう思った私はマスターの返事も待たずに身を翻した。
 ニーナは私のお母さんだ。つまり、ルノさんにとっては奥さんだ。ルノさんがマリオネットになったときに彼女もそうなったのか、ならなかったのは結局分かっていない。マスターにはその記憶がないし、いつの間にかあの緑の銃もなくなってしまったためチャーリー君に尋ねることもできない。どちらにしろ彼女の行方は知れないままなのだ。ルノさんはその彼女を探しに行くという。ばらばらになった家族をもう一度元に戻そうということなのだろうか?
 それなら、私に黙って行ってしまうなんて、あんまりではないか。
 裏口のドアを押し開けると、まだ馬車はそこにあった。私はほっと息をつくと、今にも馬に鞭をくれそうな御者さんに聞こえるように待ってください、と大声を上げた。彼がびっくりした顔をして私を見る。ルノさんはあまり驚いた様子ではなく、落ち着いた雰囲気で馬車から降りてきた。彼の背後、馬車の中にいくつか荷物が積まれている。
「お母さんを探しに行くんですか!?」
 私は勢いでそう尋ねた。うっかり詰問するような口調になってしまい、しまったと思ったがルノさんの表情はいつも通り淡泊であったので妙にほっとした。彼はうなずく。
「ああ。……師匠に口止めをするのを忘れていたな」
「私、追いかけてこなかった方がよかったですか」
 そんなことはない、と言ってもらえるのを期待して私はそう言った。ルノさんは少しの間黙って私を見ていたが、私の言葉が聞こえなかったかのように口を開いた。
「すまないが、君を連れてはいけない」
 私が言いたいのはそういうことじゃない。ルノさんの涼しげな瞳を見返しながら私は心の中でそう叫んだ。そうじゃないのだ。連れていってほしいわけじゃない。連れていってもらえるなんて最初から思っていない。じゃあいったい何が言いたかったのだろう。
「では」
「待って!」
 私が何も言わずにいると、ルノさんは私に背を向けて馬車に乗り込もうとした。反射的に叫んで彼の服の裾をぎゅっと掴む。彼はぴたりと足を止めたが振り返ろうとはしない。私は必死に頭の中でかけるべき言葉を探すが、見つからない。私も一緒に連れて行ってください、とすがるのは違う。気を付けてくださいねと笑顔で送り出したいのでもない。
 いや、笑顔で送り出せばいいのだ。どうか奥さんが見つかりますようにと祈ればいい。私はどうしてそれをしたくないのだろう、お母さんの居場所を知りたくないわけがないのに。お母さんが見つかって、親子で暮らすことができたら素敵だろうと思うのに。
 無言のまま時が過ぎ、何も言うことができない私は焦って彼の背中を見上げた。広い背中。私のお父さん。
 私は口を開き、かき消えそうな小さな声でお父さん、と呟いた。自分の声が耳に届いた瞬間、深い霧がざあっと消えたみたいに私の世界が明瞭になる。私は思わず目を見開いてから、固まってしまっていた彼に背後から抱きついた。彼はちょっとだけ身動きをしたけれど、それが彼のどういう感情の現れなのか興奮している私にはまったく分からない。さっきまでの沈黙が嘘のように、心の中から次々と言葉があふれ出てくる。今度は言葉が多すぎて、逆にどれを口にしていいものか分からない。はち切れそうな心の痛みをやりすごそうと、彼にしがみつく腕にぎゅっと力を込める。
「お父さん、私、私ずっと待ってます。ここで、ずっとお父さんが帰ってくるのを待ってます。だから、だからお父さん……」
 思いつくままに発した言葉は思いの外しっかりとしていて、震えてはいなかった。彼の手がゆっくり動き、しがみつく私の手を上から包み込みほどいていく。そうして彼は私の腕から自由になった。振り返ろうとはしない。
「わかった。必ず、帰ってくる」
 ささやくような彼の返事は、ちょっと聞けば無感情な声だったが、どこか今までにないやわらかさを含んでいるような気がした。
「はい。待ってます」
 私は一字一字をはっきりと発音してうなずいた。彼はそれきり何も言わず馬車に乗り込む。知らんぷりをしてくれていた御者さんが私の方をちらりと見て、それから彼を見て、馬に鞭を入れた。馬がいななき走り出す。馬車の大きな車輪が回り始める。私はけっこう近いところに立っていたので、危ないかもしれないと思い数歩後ろに下がった。私がもし今、あの車輪に轢かれそうになったら、彼はどうするだろうか。そんなことを考えてくすりと笑う。彼は絶対に助けてくれるだろう。だから、きっとさっきの言葉も嘘ではないのだ。彼はいつかちゃんとここに帰ってくる。そのときになったら私と彼とニーナさんは「家族」になれるのだろうか。それは今は分からないことだ。

 表の大きな街道に向かっていく馬車に、太陽がまぶしいほどに光を落としていた。



  Fin.


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