01 マリオネット --2



もしも、もしも私がマリオネットじゃなくて、人間だったなら。

マスターと一緒にたくさんおしゃべりしたい。
マスターにおいしいごはんを作ってあげたい。
そうだ、マスターにマリオネットの作り方を習うのもおもしろいかもしれない。

やりたいことはたくさんあった。
奇跡でも起こらないと不可能なことだって分かっていたから考えないようにしていたけど、
私は本当は一度でいいから人間になってみたかった。




その奇跡が起こったというのに、
どうして私はマスターのそばにいないの?








「あんた、今なんて言った……?」
 私を抱き起こした男の人は、なぜか切羽詰まった様子でそう言った。マスターとはぐれてしまった私ならともかく、どうしてこの人が焦っているのだろう? そう考えて、この人はマスターを襲ってきた人だということを思い出す。
「……い、やっ」
 不思議なもので、今まで一度も自分の体を自分で動かせたことがなかったのに、私がおとなしくしていたから油断していたらしく男の人の腕を振りほどこうともがくのは簡単だった。だが腕の中から抜け出た私はそのままバランスを崩し地面に倒れてしまう。ほこりっぽかった地面は雨を吸い込んでぬかるんでおり、びちゃっと泥が跳ねた。痛い。反射的にそう思って、ああこれが痛いってことなんだ、と理解する。
「大丈夫かよ」
 うまく力を入れられない腕を突っ張って体を起こすと、男の人が手を伸ばしてきた。振り払ってやりたいが、今は片腕だけで体を支えようとするとまたバランスを崩してしまいそうだ。
「いやです! こないで、触らないで……!!」
 私に残された抵抗の手段は、ただ叫ぶことだけだった。情けなさのあまり視界がにじむ。目頭が熱くなる感覚で自分が泣いているのだと気付き慌てて目を閉じるが、声が震えてしまう。
「なんだよ、それ。別に俺はなにも」
「マスターを襲ってたじゃないですか! マスターは、もう結構な年なんですよ!? それなのにっ……」
「マスター!?」
 突然男の人が出した大声に身がすくんだ。思わず叫ぶのをやめておそるおそる彼を仰ぎ見ると、彼は薄暗い中でもはっきりそれと分かるほど怖い顔をしていた。
「……っ」
 また、目に涙が浮かんでくる。男の人は少しうつむいたまま考え込んでいて、逃げるチャンスなのに、怖くて体が動かない。マスターのカバンみたいに、私も穴を開けられて壊されてしまうのかもしれない。しばらくの沈黙のあと、彼は静かにこう言った。
「……あんた、マリオネットなんだな?」
「……」
 マスターのことを口に出してしまった以上、ここで黙っていても状況は変わらない。それでも頷いてしまえば怖いことをされそうで、恐ろしくて何も言えなかった。すると男の人は苛立った様子で声を荒げる。
「どうなんだよ!」
「ひっ」
 びくっ、と体が震えた。ほとんど反射的にうなずいて、それを後悔する間もなく力強い腕が伸びてくる。
「や、きゃあっ」
 後ずさろうとするがもう遅かった。私の体は男の人に抱え上げられ、泥まみれになって地面を這っていた手足が宙を切る。抵抗しようにも、体がどこも地面についていないため恐怖感が勝り弱々しいものしかできない。ちょうどお姫様抱っこと呼ばれる体勢であるため、自分の体がよく見えて、ああ本当に人間なんだ、という思いが頭をよぎった。
「わ……私をどうするんですか……?」
「とりあえずおとなしくしてくれよ。乱暴なことはしない」
 男の人が歩き始めると揺れのせいで落ちそうになり、私はあわてて彼の服にすがりついた。





 狭い裏路地をしばらく歩いて、連れてこられたのは家と家のあいだでつぶされそうな小さな建物だった。ドアも小さくて、少し身をかがめなければくぐれないほどだ。犯罪者はきっとこういうところに身を隠すんだわ、と思うとますます身が固くなった。
 建物の中に入ると、染みだらけの汚い壁と床が目に入る。部屋に置かれているのは簡素なベッドだけだった。
「ここで待っててくれ」
 男の人は私をベッドの上におろすと、すぐに背を向けてドアに手を掛ける。
「あんたに会わせなきゃいけない奴がいるんだ。連れてくるから、待ってろ」
「え……?」
「ああそれと、逃げたりするなよ? まあどうせ逃げられないけどな」
「……」
 私が黙って頷くのを確認してから、彼は部屋を出て行った。

「……マスター」
 狭い部屋でぽつりとマスターを呼んでみても、もちろん答えてはくれない。もう、私がいなくなったことに気付いているだろうか。今ごろはあちこちを探し回っているだろうか。たとえそうだとしても、こんなところにいてはきっとマスターは私を見つけることはできない。
 そこまで考えて、私はベッドから立ち上がった。あの男の人が帰ってくるまでにここから出て、マスターを探さなくちゃいけない。
「……逃げられないって、どういうことだろう」
 ドアノブを握ったときふと男の人の言葉が思い浮かんだ。もしかして外で誰かが見張っていたりするんだろうか? 逃げ出そうとしたことがばれたら何をされるか分からない。でも、ここでおとなしくしていたって危険な状況であることには変わりない。だったら一か八か逃げ出したほうがいい……そう思ってドアノブを回そうとするが、何かにつっかえるような感じがして回すことはできなかった。
「あれ? あの人が開けたときは回った、よね?」
 がちゃがちゃと同じ動きを繰り返すがドアノブは回らない。それほど複雑な形のドアではないし、あの男の人は私を抱えたまま片手で開けていた。と、いうことは。
「まさか、鍵がかかっているの……?」
 思わず口に出してしまってから、頭から血の気が引いていく感じがした。ぺたりと床に座り込んで泣きそうになりながらドアを見上げる。外から鍵のかかったドアを内側からはどうすることもできない。つまり、私はもうここから逃げることはできないのだ。
 目から溢れた涙が頬を伝って、汚れたエプロンドレスの上にぽたりと落ちた。


きっとこれは夢なんだ。
私が人間になりたいなんておこがましいことを考えていたから、
神様が罰を与えたんだ。
神様、ごめんなさい。
私はじゅうぶん幸せだったのに、それに気付いていませんでした。
もうわがままは言いません。
だからどうか、マスターのところへ帰してください。
こんな悪夢は、もうたくさんです。


 そういえば、誰かを連れてくると言っていたけど、一体誰だろう?マスターだったらいいな……という思いがちらりと頭をかすめたが、マスターに危険が及ぶことを考えるとそれは最悪の事態だ。あの人はマスターを殺そうとしているのだから。
 でもどうしてあんなに優しいマスターが命を狙われなくちゃいけないの?もしかしたら誰かと間違えているのかもしれない。私はマスターの名前を一回も読んでいないし、あの人がマスターの名前を呼んでいるところも聞いていない。そう、きっと人違いなんだわ。あの人にそう言えば、私を解放してくれるかもしれない。

 カチャ、とドアの向こうで金属の触れ合う音がした。それに反応して私の体はびくりと震える。あの人が、戻ってきたのだろうか。カチャカチャという音がしばらく続いて、やがてドアがゆっくりと開いた。私は床に座り込んだまま後退するがもちろん逃げ場はない。無意味と分かっていながらも息を殺して薄暗い中浮かび上がった人影を必死で睨みつける。


「……君は……?」


 だが、聞こえてきた声は、さっきの男の人とは別人のものだった。




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