第3章:咲いた白い花 --8



 シュウは再び浅葱の背におぶさり、頭領に先導されて館の廊下を進む。来た道を戻っているように思えるが、本当にそうなのかは定かでない。なにぶん、入り組みすぎなのだ、この館は。
 てっきり全員でぞろぞろ移動するのかと思っていたが、並んで座っている老人たちはその場を離れなかった。じっと俯いている者、シュウをきつく睨みつける者など様々ではあるが、全員から張りつめた空気が伝わってくる。そのうちの一人、先程浅葱と柳を止めた老人だけが移動する一行に加わっていた。この老人だけは他の老人たちと違って、あからさまな敵意を向けてきてはいないように感じる。あくまで感じるだけであって、表情が読めない皺だらけの顔の下で何を考えているのかは分からないが。
 先導する頭領が前を向いたまま話しかけてきた。
「シュウさん。我々はこの地で、山から下りてくる妖異どもを相手に日々戦っています」
「え、あ……はい」
「妖異も獣たちと同じようにそれぞれ習性を持っています。狩りをして餌を喰らい、繁殖して子孫を残す。その本能に従って行動します。凶暴で残忍な性質の妖異でも、自ら火の中へ飛び込むようなことはしません。ですが、あの五月九日以来、火の中へ飛び込もうとする妖異が現れたのです」
 頭領がある部屋の前で足を止めると、すかさず柳が進み出て襖を開ける。
 こちらの部屋はそれほど広くはなかった。窓がなく暗い室内を四隅の行燈が照らしている。部屋の中央には布団が敷かれ、そこには大きな大きな一輪の花が咲き誇っていた。
「え」
 ぱちぱちと瞬きをして暗さに目を慣らす。花と見えたのは横たわる一人の少女だった。布をたっぷり使った白い服が花びらのように広がっているのだ。着物ではない。シュウと同じくハインリッヒの衣装だ。ぼさぼさに絡まった金の髪には泥がつき、服もあちこちが裂けてしまっている。ぼろぼろになっていても、繊細なレースの装飾がふんだんにつけられたそれは明らかに普段着ではない。何の衣装なのか見当はつくものの、実物を見るのは初めてだった。
「彼女に見覚えはありますか」
 浅葱の背から畳の上に下りると、シュウは少女の顔を覗き込む。閉じた瞼を髪の色と同じ金色の睫毛が縁どっている。血の気の失せた頬は染み一つなくまるで人形のようだ。まさか死体じゃないだろうな。自分で考えておきながら寒気がした。恐ろしい考えを打ち消すように首を振って、隣に腰を下ろした頭領の方を向く。
「知らない人です」
「彼女はあなたと同じく、杯律国から逃れてきた方です。二日前に送った偵察隊の報告によれば、町を覆う毒の霧はまだ晴れていません。晴れるどころかじわじわと広がっており、九日には安全だった地点にまで汚染が広がっています。偵察隊も町の中へは侵入できず手前で引き返してきたそうです。残念ながら町の中は全滅でしょう。一晩で草木が枯れ果てるほどの毒です。他の町へ逃れることができたなら、助かったかもしれませんが。我々が発見できた生存者は、あなた方二人だけです」
「……ぜんめつ」
 呟いた言葉の重さに心が潰されそうだ。シュウは呆然として横たわる少女の顔を見下ろす。知り合いの顔を一つ一つ思い浮かべても、少女の顔は出てきそうにはない。
「さきほどの、妖異の話の続きですが」
 頭領の赤銅色の瞳がシュウの様子をじっと見つめている。
「この里と山との間には防衛線を張っています。その線を一歩でも超えたら最後、いかなる妖異も生きては返さない。目に見えない境界線ですね。何十年何百年と繰り返すことにより、妖異どもの本能に『これ以上進んでは死ぬ』と植えつけているのです。妖異といえども生物、他者を殺戮するよりも自らが生き残る術を選ぶ……これまでは、そうでした。ですが、ある時から妖異は我々が刻みつけたはずの境界線をやすやすと超えてきています」
 頭領は一旦言葉を切り、声を低くひそめた。
「シュウさん。あなたが境界線を超えてからです」
「僕、が」
「五月九日に山中で発見されたあなたは、毒の霧を吸い込んで瀕死の状態でした。我々は街道のふもとの町にてあなたを保護することとし、町外れの診療所にて密かにあなたを匿いました。そしてその夜、診療所は妖異どもの襲撃を受けました。幸いなことに妖異どももまた毒を吸って弱っており、容易く撃退することができたため被害は出ていません。ただ、負傷者が出なかったとはいえ、人々の生活空間を妖異どもに犯されたことは事実です。我々はすぐにあなたの身を別の町へと移しました。しかしそこでも我々は妖異の襲撃を受けたのです。あなたが意識を取り戻すまで、あなたの身柄は三度移動させましたが、その全ての場所を妖異どもは襲っています。明らかに、奴らはあなたを狙っている」
 頭領は横たわる少女にちらりと目線を向ける。
「彼女についても状況は同じでした。どこへ移動しても妖異どもがついて回り、どこまでも追ってくる……そのような状態で人里へ置いていくことはできず、やむなくこの隠れ里へお招きすることになったというわけです」
「僕が……僕と、この女の子が、妖異に狙われているんですか」
「恐らくは、そういうことでしょう。なにか心当たりはありませんか」
 心当たりなどあるわけがない。シュウは力なく首を横に振った。頭領は微笑みを崩さずに少し首をかしげシュウの顔を覗き込む。
「杯律国で、妖異に襲われたことはありますか」
「ないです」
「一度も?」
「はい。その、ザーラの町が襲われた時に、遠くから見たことはあります」
「なるほど。それではやはり、五月九日に何かが起こったと考えるべきでしょうか」
「なにか、って……なんでしょう」
「分かりません。妖異が特定の人間をつけ狙うなど、これまでに例のない事態です。その謎を解き明かすためにも、杯律国の生き残りであるあなたにお話を伺いたかったのです。あの日にあなたの暮らしていた町でいったい何が起こっていたのか。妖異の凶暴化の原因は何なのか。それを止める術はあるのか」
 シュウは俯いた。頭領の言葉にも声色にも、彼を責めるような響きは一切なかったのだが、彼は自分が責められているような気持ちになっていた。ザーラで何が起こったのか、彼の身に何が起こっているのか。彼自身だけでなく誰もがそれを知りたいと思っているのに、五月九日の記憶はさっぱり浮かんでくる気配がないのだ。また、たとえ記憶が戻ったとしても、シュウは自分のような平凡で何の力もないただの学生が、彼らの求めるような重要な情報を知っているとは思えなかった。
「我々は引き続き、妖異や毒の霧についての調査を進めます。シュウさんも、どんな些細なことでも構いません。何か思い出したらすぐに教えてください。その代わりと言っては何ですが、我々もできる限りの情報提供をさせていただきます」
「ていきょう、ってつまり、分かったことがあったら、教えてもらえるってことですか」
「ええ」
「じゃ、じゃあ! あの、僕以外の人で、生きている人が見つかったら、教えてほしいです……」
 自分の声が尻すぼみに小さくなっていくのが分かった。先程頭領に言われた「全滅」という言葉が頭の中に浮かび、まるで毒のようにじわじわと体を重たく侵していく。全滅だなんて信じられるわけがない。なにしろ、シュウの記憶の中にあるのはいつも通りの平和なザーラの風景だけなのだ。爆発が起きたとか、毒が立ち込めただとか、そんな物騒な出来事は今朝見た悪夢の中だけだ。家族も友達も、みんな死んでしまったなんて信じられない、信じたくない。彼らの言う通り異変が起こっていたとしても、何だかんだと逃げ延びている人は他にもいるかもしれないではないか。シュウのような実戦経験も何もない学生がこうして生き残っているのだ。越境商人である父親、士官学校の教官、ザーラには歴戦の兵士たちが大勢いる。彼らがいつも町を守っているのに、そんなに簡単に全滅なんてするはずがない。
 頭領は少しの間沈黙し、シュウを変わらず優しい顔で見ながら分かりました、と囁いた。まるで、彼が心の中で自分に言い聞かせている文句が、全て聞こえていたかのような顔だった。


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