第3章:咲いた白い花 --7



「私たちは、名を二つ持っているのですよ」
「ふたつ? 名前を、ですか」
 シュウが首をかしげると、何がおかしいのか頭領はふふ、と笑みを浮かべた。周囲の人たちから怒気が痛いほど伝わってくる状況で、彼女一人が柔らかい雰囲気をまとっている。シュウは混乱していた。なおかつ、いささか疲れてきてもいた。どうしてこれほど警戒されなくてはいけないのだろうか。別に悪いことなど何もしていないではないか。
「一つは、その人を呼び表すために使う名です。通常はこちらの名しか使いませんね。あなたの隣にいる彼なら、浅葱というのが呼び名です。後ろにいるその子は松葉。こちらの血の気の多い者が柳」
 頭領のしなやかな手がすっと護衛の男性の方を示すと、彼の険しい顔がぴくりと痙攣した。シュウはつられて一瞬だけ彼の顔を見上げるも、睨み返されるのを恐れすぐに視線を逸らす。
「そしてもう一つはとても大切な名。滅多に使うことはありませんし、使うべきではありません。人の、まことの名とでも言いましょうか。この世に生まれ落ちたときに授かるその人だけの大切な名であり、みだりに人に教えてはいけないものです。私たちは皆、一人一人がこのまことの名を持っているのです」
「まことの名……つまり、アサギさんには、アサギさんっていう名前のほかにもう一つ名前があるってこと、ですか」
「その通りです。そして浅葱のまことの名を知るのは、彼にその名を与えた親のみ。この私でさえも彼の名を知ることはありません。まことの名を知ることができるのは、名付けた親と、その者の配偶者だけなのです」
「……はいぐうしゃ?」
「結婚相手や。男なら嫁さん、女なら旦那さん」
 耳慣れない単語を聞き返すと、横から浅葱がすぐに通訳をしてくれた。
「多分、知らんかったと思うけど。単純に『浅葱です』と言うだけなら、呼び名としての名を名乗ったことになる。でもそれを『私の名は浅葱です』と言うと、まことの名を名乗ったことになる。……っていうことを、先に、説明しておかなあかんかったんやけど。忘れてた。ごめん」
「え、で、でも。僕は名前、一つしかないです」
「そうですね。あちらの……杯律国ではまことの名という考えがないと聞いています。この場合、名をそのまま呼び名として捉えて問題ないのでしょうか。ねえ杉」
 ふいに、頭領はそれまで無視していた老人たちの方へ目線を向けた。問いに答えたのは先程浅葱と柳を一喝した老人である。短い白髪をかっちりと後ろに撫でつけ、ぴしりと背筋を伸ばした老人には他の者にない気迫が感じられた。シュウに向ける視線は決してやさしいものではないが、他の老人たちと違って明らかな敵意は感じられない。シュウは浅葱の影に隠れるようにしながらおずおずと彼の方を覗き見る。
「呼び名で問題ないでしょう。頭領、呼び方よりも問題なのは先の発言の件です。反応から察するに本人にその気はないのでしょうが」
「そうですね。本題に入る前にその誤解を解いておきましょうか。浅葱、説明なさい」
 固い笑みを浮かべる浅葱の口元がひくりと震えた。
「えーっと。まことの名を知るのは、両親と結婚相手だけやっていうのはもう分かったやんな?」
「うん」
「つまり、結婚する男女はお互いの真の名を教え合うわけや」
「うん」
「だから『あなたの名を教えてください』っていうのは、『結婚してください』っていう意味になる」
「うん。……うん?」
 頷いていたシュウは、話が思わぬ方向に進んだことに気付き目をまたたかせた。
「さっきシュウくんは、頭領に、その、求婚したわけや」
「えっ」
「あ、求婚って分からんかな。ハインリッヒ語で言うとプロ……」
「わ、わかる! わかるから!」
 シュウは慌てて浅葱の言葉を遮る。
「ぼ、僕、自己紹介の時はこう言うんだって学校で習ったんだよ!?」
「あー、うん。それは残念やけど、シュウくんの先生が間違ってるね」
 シュウの顔がかあっと熱くなった。頭に血が上っていくのが自分でも分かる。周りの老人や護衛の男性がなぜ唐突に怒り出したのかようやく理解した。自己紹介もそこそこに、一番偉い人へいきなり結婚の申し込みなどしたら、それは何のつもりだと怒られても仕方ないだろう。穴があったら入りたかった。
「ごめんなさい、大変、失礼しました!」
 頭領に向かってぺこりと頭を下げる。
「顔を上げてください。我々のような隠れ里に住まう者の慣習など知るはずもないのに、過剰に反応したのはこちらですわ。驚かせてしまって申し訳ありませんでした」
 シュウは言われるままにそっと顔を上げ、そして代わりに頭領が頭を下げるのを見てうろたえた。老人たちがおやめください、と声を上げるが彼女はお構いなしだ。流れるような綺麗な動作で顔を上げ、彼女はまたにこりと微笑む。
「さて、それでは本題に入りましょうか」
「は、はい」
「そう固くならないでください。お尋ねしたいのはただ一つ、あなたが何を見たのか、だけですわ」
 シュウははっとして、思わず居住まいを正した。そう、いろいろあってすっかり頭から抜け落ちていたが、今日は頭領と話さなければいけないことがあったのだった。何を見たのか。どこで、とは問わずとも明らかだった。五月九日にザーラで何があったのか。空が赤く染まり、毒の霧に覆われたという山の向こうの故郷で、シュウは何を見て、何をして御鷺国へ辿り着いたのか。
「わからないんです」
「わからない、とは」
「何もかも夢みたいなんです。僕にはその日の、五月九日の記憶がない。何も覚えていないんです。前日の夜にいつものように自分の家で眠って、次に目が覚めたときにはこちらの国の牢屋の中でした。」
「そうですか」
 頭領は白く細い手をその口元にあて、考え込むような仕草をする。
「どんな小さなことでも構いません。何か一つでも、思い出せたことはありませんか」
 シュウは自分の手元に視線を落とした。本当に、本当に何も覚えていないのだが、そう言われると困ってしまう。何か隠しているのではないかなどと疑われるのも怖い。
 だが、脳裏に浮かぶ記憶を何度巻き戻しても、五月九日のそれはシュウの中に存在しないのだった。代わりに思い浮かぶのは夢の記憶だ。試験に緊張する相棒の顔。愛用している杖を握った感触。火の海と化した町。耳鳴り。火傷を負った少女の腕。
「本当に、なにも、思い出せないです」
 粘つく口を開くと、やけにかすれた声が出た。
「五月八日までは、普通に生活していたんです。毒の霧なんて聞いたこともなかったし、そんなものがザーラに出たなんて、僕は、本当のことだと思えないんです」
「なるほど」
 着物の擦れる音が聞こえる。シュウが顔を上げると、立ち上がった頭領が彼のすぐ前まで近付いてきていた。見惚れてしまいそうな涼しげな顔の向こうでは、相変わらず険しい顔つきの柳が腰を浮かしている。
「思い出すのはきっと、あなたにとって辛いことなのでしょう。それでも私たちには、一刻も早く情報が必要なのです」
 頭領はシュウの顔を覗き込むようにしてにこりと微笑むと、くるりと踵を返した。
「少々、お話したいことがあります。一緒に来ていただけますか」


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