「大きくなったら、お兄さんのおよめさんになるの」
 そんなよくある子供の約束をくれたのは、隣の家に住んでいた七つ下の女の子だった。あれは確か、同じ長屋に住むお姉さんがお嫁に行った、その花嫁行列を見に行った帰りだったか。幼い彼女には、白無垢を身にまとった花嫁の姿がさぞかし輝いて見えたのだろう。彼女ははにかみながら、ちいさな手で私の手を握りそう宣言したのだ。
「僕のお嫁さんか」
「うん」
「もっと恰好いい人が、いるかもしれないよ」
「お兄さんがいいの」
「そうか。それは、楽しみだな」
 彼女はいつも大人しい子供だったが、この時ばかりは少し違った。私の手をぎゅっと強く握ってみたり、歩きながら体当たりをするように体を寄せてきたりと落ち着きがない。まだこの世に生まれ落ちて十年も経たない幼い子でも、立派に少女なのだ。
「ねえ、やくそくして」
 彼女は僕に小指を差し出した。
「針千本かい」
「だめよ。せんより、いちまんのほうが大きいって、おかあさんがいってたの。だから、はりいちまんぼん」
「なるほど。それは、約束を破ったら、大変なことになるね」
「うん」
 彼女は大真面目にうなずき、小さな指をゆらゆらと揺らして私を誘った。私たちはしっかりと指を絡ませ、他愛ない約束を交わしたのだ。春の新芽のようなその感触は今でも思い出せる。



 突き抜けるように青い秋の空の下、豊かに水が流れる川べりを数人の人の列が歩いていた。山から流れ出て町を通り抜け、やがて海へと至る水は澄みわたっていて、どこか上流の方で手に入れたであろう赤い紅葉をちらちらと浮かべている。水面は陽の光を浴びて眩しく煌めき、暑さの和らいだ心地よい風が人々の間を通り抜けていく。
 ささやかな列を作った人々は皆一様に黒い着物を身に着けていた。先頭を行く四人の男が粗末な木の箱を抱え、その後ろに少女と年嵩の男が続く。少女は終始うつむいており、穏やかな秋の風景は少しも目に入っていないようだった。足取りもおぼつかなく、時折河原の石に足を取られてふらついている。年嵩の男はそれに気付いているのかいないのか、少女の手を取ってやる気はないらしい。列は少女の遅れに合わせてか、比較的ゆっくりと川沿いを下っていった。
 川の向こう岸で、橋のたもとからその様子を窺う者がいた。
 白絣に紺の袴を穿いた痩せぎすの青年である。年は二十。名は清という。温和そうな顔つきで、口元には微笑みが浮かんでいるのが常であるが、今ばかりは鳴りを潜めていた。
 もう一人、子どもがその表情を不思議そうに見上げ、清の足元にまとわりついていた。年は七つか八つぐらいか。名は奏太。丈の短い小袖を着て、まとまりなく跳ねる髪を一つに縛っている。恰好は其処らの子どもと何も変わりはないが、奇妙なのはその髪と瞳の色だった。髪の色は黒ではなく、木の枝と同じ赤褐色をしている。そして瞳の色は緑がかっていた。人前では嫌でも目立ってしまう容姿をしているが、それを見咎められたことはない。
「セイ、行かないのか」
 奏太はくい、と清の袖を引いた。何をするでもなくじっと立っていることに痺れを切らしたのだ。清はそんな奏太を見下ろし、唇にふっと笑みを乗せた。
「あれを追っているのではなかったのか。行ってしまう」
「そうだね。もう、行ってしまう」
 話している間にも、人の列は彼らから、町から遠ざかっていく。だが清にはもうそれを追う気はなかった。
「あれを追うのでないのなら、なぜこんな所まで来たんだ」
「奏太」
 清の声に少しだけ諌めるような調子が混じる。
「こういう時は静かにしなさい」
「なぜだ」
「人が悲しい思いをしている時はそうするものだよ」
「セイは悲しいのか」
「そうだね」
「あの人が死んだからか」
「そうだよ」
 清は首を傾げて、奏太の癖っ毛を指先で弄ぶように梳く。
「おまえはもう死を悼むことを知っていると思っていたよ。私が危ない目に遭うといつも心配してくれるじゃあないか。奏太は、私が死んだらどうする」
「セイが死ぬ」
 鸚鵡返しに呟いた奏太は、その大きな緑の瞳を瞬かせた。
「具合が悪いのか」
「え。いや、違うよ」
「セイは具合が悪くても無理をするからいけないと、ゲンジが言っていた。もう帰る」
 小さな手が清の手を引く。清は苦笑して、反論することもなくそれに従った。川沿いの道を上流に向かって歩く。町へ続くその道の周りには黄金色の海が広がっている。収穫の季節だ。
「セイも、死ぬのか」
「私も人だからね」
「いやだ」
「うん」
「死んではだめだ」
「気を付けるよ」
 奏太が一歩踏み出すごとに、結んだ髪がふわふわと揺れる。その動きに笑みを誘われつつも、清はちらりと背後を振り返った。見送っていたものはもう見えなくなっていた。
 田んぼばかりだった景色の中に少しずつ民家が増えていく。道を行く人の数もそれに伴って増えていった。橋を一つ越えると、町を横断している古い街道と道が交差する。この町は、古くはこの街道に沿って栄えた宿場町であった。
 昔、人々の主な移動手段が馬や徒歩しかなかった時代に、ずらりと軒を連ねていたという宿場はほとんど残っていない。鉄の道が敷かれ、大きな町から町へ一日で移動することができるようになった今では、この町に泊まろうという旅人は少ない。なにしろ田んぼしかないような田舎である。それでも、近隣の町村の住人からすれば、街道沿いの町の通りはこの辺りで一番栄えている場所であった。
 街道を町の中心に向かって五分ほど歩くと、商店街に入る。たばこ屋、自転車屋、靴屋ときて、四件目の八百屋が目当ての場所だ。八百屋の売り場は六畳ほどの大きさで決して広くはなく、籠に盛られた野菜の山は売り場から往来へとはみ出ている。ちょうど客はいないようで、二人が入っていくと奥では店主が暇そうにぼんやりと新聞を広げていた。
 店主は今年63歳になる、白髪交じりの変わり者の老人である。名は玄治。いつでも眠たそうな目をして、だらしなく緩めた服を着ている。
「ただいま戻りました」
「おう、遅かったな」
「少し様子を見るだけのつもりだったのですが、ちょうど出棺するところでしたので。しばらく見送ってきました」
 清は履き物を脱いで奥へ入る。奏太も後に続くが、こちらは履き物を脱がない。そもそも裸足なのであった。足を拭きもせず畳の上に上るが、清も玄治もそれを咎めなかった。不思議なことに奏太の歩いたあとは少しも汚れていない。
「狐に憑かれてたらしいな」
 台所へ行こうとしていた清の足が止まった。店の方へ戻り玄治の顔を覗き込む。
「狐ですか」
「病気になったのも死んだのも、狐に憑かれたせいだという噂だぞ。本当なのか」
「さあ、どうでしょうね」
 清は肩をすくめる。玄治がちょっと眉をひそめた。
 今朝、町の外れにある古い長屋で葬式が出た。まだ若い四十ほどの女性だ。体が弱くもともと病がちであったのが、ここ最近で一気に具合を悪くし床を離れられないようになってしまったのだという。女性の家族は今年十三になった娘一人のみであり、稼ぎ頭のない貧しい彼女らは満足に医者を呼ぶこともできなかった。事情を知った近所の住人が薬や食べ物を都合してやっていたのだが、快方に向かうことはなく黄泉の国へ旅立ってしまったという。
 狐憑きの噂がどこから出たのかは判然としない。曰く、苦しみの余り獣のような声をあげていた。また曰く、病室の中で四つん這いになって這い回った。更には、鼻が狐のようにとがっていたとまで言い出す輩すらいるという。
「おまえ、あそこの女の子のこと可愛がってただろう。名は何と言ったか」
「妙子さんですか」
「ああそうだ、妙子ちゃんだ。祓ってやらないのか。女の子だっていうのに色々言われて、可哀想じゃないか。母親が殺されて次は娘だとか、引き取る奴は災難だとか」
「依頼が来れば、引き受けますよ」
 不快そうな玄治の言葉にかぶせるようにそう言って、清はにこりと微笑んだ。玄治の視線には気付かないふりをして台所へ戻っていく。
 玄治と清の二人で暮らすこの八百屋では、家事全般を担当するのは主に清である。清とて家事は得意ではないのだが、玄治に任せることはできない。何と言っても彼一人では満足に米を炊くこともできないのだ。
 台所の壁にひっかけた割烹着に袖を通し、包丁やまな板を戸棚の中から取り出す。小ぶりな鍋に水を張ってコンロのつまみを回す。火がついたのを確認して蓋を閉めた。
「奏太。そこの大根を取って」
「ん」
 藤で編んだ籠には、古くなって店頭には出せない野菜が入れられている。奏太が取り出した大根はすっかりしなびてしまっていた。その葉の部分を切り落としてざくざくと刻んでいく。
「何の話だったんだ」
 奏太の頭がひょっこりと脇から現れる。清は思わず包丁を操る手を止め、苦笑を浮かべた。
「危ないだろう。近付かないでくれよ」
「狐がどうとか言っていた」
「ただの噂だよ。妙子さんとそのお母さんに狐が憑いている、そう言う人たちがいるらしいね」
「狐なんかいなかったぞ」
「噂だからね。誰か一人が言い出したらあっという間に広がるんだよ。それが本当であろうとなかろうと」
 奏太が首を傾げる。清が手振りだけで離れなさい、と示すと彼は大人しく身を離した。裸足が板張りの床を軽く蹴り、奏太はふわりと宙に浮く。まったく重さをなくしてしまったような小さい体は、清と同じくらいの目線の高さで上昇を止めた。透き通る白い腕を清の背中へ伸ばし、遠慮がちにじゃれつく。清は諦めて包丁を置くと、刻んだ葉を湯の沸いた鍋の中へ放り込んだ。
「人は嘘つきだ。いないものをいると言う。いるものをいないと言う」
「うん」
「セイの術がなければおれを見ることもできないくせに、居もしない狐のうわさは信じるのか」
「得体の知れないもののせいにして、楽になりたい。人にはそういうところがあるからね。奏太には癪かもしれないが」
「おれは狐ではないから、かまわない。狐は嫌いだ」
 清の耳に直接響く奏太の声が一気に不機嫌さを帯びる。
「おまえは猫も犬も嫌いだろう」
「あたりまえだ。あれは、おれの敵だ」
 憮然とした奏太に気付かれないよう笑いを噛み殺し、清は煮えた鍋の中で少量の味噌を溶かし火を止める。
「さ、昼ごはんができたよ。父さんを呼んできてくれ」
「ふん」
 奏太の腕がするりと離れ、ぺたぺたと足音が遠ざかっていった。
 戸棚の中から二人分の食器と小ぶりなお盆を取り出し、台の上に並べる。飯櫃にかぶせておいた布巾をめくり、麦ご飯を盛る。お椀に味噌汁をよそい、とっておいた漬け物を出せば昼食のできあがりだ。清はお盆に並んだ質素な食事をちらりと確認て、自分の分のご飯を少し減らした。あまり食欲がない。
 たたた、と奏太の足音が駆け戻ってきた。ありがとうと声をかけようとするが、奏太は清に目もくれず台所を通り抜けて勝手口から飛び出して行ってしまった。清は小さな後ろ姿をぽかんと見送って首を傾げる。間を置かず、店の方からひょこりと顔を出した玄冶が彼を呼んだ。
「おい、お前に客だぞ」




次頁へ 目次へ 表紙へ